「美しい国」を目指すのは保守派だけではない。多様性が溢れる美しい国は革新派の目標としても掲げられることがある。しかし、私は賛成できない。美しくない国を目指すべきだ。
誤解されると思うので、前置きに断るが、わざと美しいものを壊したりする意味ではない。そして、「美しくない」は重要な基準にもならない。ただ、事実上美しくない国を目指すべきだ。
美しい存在は、美意識に基づいて形成されたり評価されたりするものだ。ゼロから創造する場合もあるし、自然に美しくなった部分を保存して、醜くなった部分を排除する場合もあるが、根幹は同じだ。自分の生活で美しい環境を確保するのはいいことだと思うが、国家の方針として根本的に間違っていると言わざるを得ない。
国は美術作品ではない。国は多くの人の生活の場である。そして、その人には個人差があるし、生きるニーズもある。国の構造で目指すべきことは、すべての住民が自分の生活を自由で有意義に営める環境だ。その条件を確保したら、国が自然に美しくなくなる。
まずは、実践問題がある。街中に見える黄色の点字ブロックは美しくない。しかし、目の不自由な人の生活に必要だから、設置すべきだ。景観が損なわれることは問題にならない。電線や道路も同じようなことになるし、太陽光発電設備や風力発電設備も同じである。風車にはその建造物なりの美しさがあるだろうが、大自然の中に立ち並ぶと自然の美しさが劣る。電線も同じ影響を与える。電線のせいで日本の都会を醜く評価する外国人も少なくない。
才能のある方が頑張れば、美しい点字ブロックや電線の改良は可能かもしれないが、容易ではない。そのため、美しい解決策を待つべきではない。まず、生活の可能性をもたらす設備を設置して、後日に美しくできれば良い。
もう一つの問題はさらに根本的だ。
美意識が人によって違う。
そのため、ある人の目で美しく映る風景が別な人に醜く見える。服装を美しいと判断して着る人は多いが、お互いに褒めない場合も多い。鉱山は美しいという人もいるが、景色が悪いと思う人の方が多いだろう。古代ギリシアの神殿を真似るホテルは美しいかどうかと聞けば、意見が分かれるはずだし、東京都の都庁についても意見が異なる。
つまり、住民が挙って「美しい」と言う風景は実現できない。そのような風景はそもそも存在し得ない。
生活様式はなおさらだ。短歌が行き交う生活風景を美しいと思う人は少なくないだろうが、それは生産性は非常に低いので、物作りに携わった方が美しいと思う人もいるのではないか。美しい生活様式を実現しようとすれば、住民の大部分の生活を壊すはずだ。
つまり、多くの人間が国に住めば、その国が必然的に多種多様になる。移民はいなくてもそうだ。その多様性の側面の一つはニーズの多様性で、もう一つは美意識の多様性だ。そのため、「美しい国」を目指すため、住民の一部否定しなければならない。むしろ、全ての住民の生活を支援する国を目指すべきだ。それは、必然的に美しくない国である。
だから、美しくない国を目指すべきだ。