正義の魅力

正義を求める人は多い。正義を憧れる人も多い。正義の味方になりたい人も多いだろう。しかし、私は正義の魅力は幻であると思う。

そう思う理由を説明する前に、正義の魅力を具体的に描かなければならない。

この問題は難しくないと感じる人は少なくなかろう。言葉の漢字で明白であると思われるだろう。「正」と「義」だから、魅力的だろう、と。しかし、このような答えで物足りない。なぜ「正」と「義」に魅力があるのかという質問が残るし、まだ答えを待っているように感じる。「美」も同じだ。確かに美は魅力的ではなかったら、美ではないが、その魅力はどこにあるかという質問が残る。

では、正義の魅力はどこに潜んでいるだろう。それに応えるために、生活の中の正義の役割を考えよう。その役割の一つは、いい世界をもたらすことだと思う。正義に従えば、何でもかんでもがうまくいくということだ。ただし、現実はそれほど甘くないのは、誰でもわかる。私一人で正義に従っても、私の人生がうまくいく保証はない。むしろ、皆が正義に従えば、世界が理想郷になると主張される。と同時に、不正を犯す人はいつもいるとも思われるので、これは現実的ではない。

現実に実らない利益は、本当に魅力になるのだろうか。私はそう思わないので、正義の魅力を別な側面で探すべきだ。所詮、世界に立ち向かって正義に従う行為にも魅力があるようだ。それはなぜ?

単純に考えれば、正義は、正しい行動を指すと言える。つまり、行動の道標である。それは自分の道標だけではない。正義に照り合わせたら、他人の行為を褒めたり批判したりできる。正義に従うことは難しい場合も少なくないし、周りの人が公然に従わないこともあるが、それでも正義の概念が安心感をもたらす。理由は二つある。

まず、自分の行動について、正義に適う行為であれば、堂々としても良い。社会の常識から逸脱しても、周りの人を驚かしても、そして自分の欲望を犠牲としても、正義に適う行為であれば自信を持って行うことはできる。遂行するのは難しいとしても、そして自分の犠牲を感じても、正義に従っている確信が安心感をもたらす。この行為は間違っていないという自信である。

そして、他人に対して、嫌の行動を批判する時、それはただ自分の好き嫌いであるからか、自分の私利私欲に合わないからか、と迷ったら堂々と批判できないだろう。大声を出しても、心の片隅に疑問が残る。一方、その批判は正義の違反に基けば、自分の損得はどうであっても関係ない。正義を求めたら、自分の利益に帰する場合もあるだろうが、それはどうでもいい。重要なのは正義を求めることである。正義の規定が自分の損害をもたらす場合見逃したら、性格的な問題ではあるが、それでも正義は正義だ。正義を擁立する場合、その課題について堂々と行動できることには変わりはない。

この安心感は大事です。正義を見分けることは難しい場合もあるが、正義が分かったら、さらに考える必要がなくなる。正義を一所懸命求めたら良いのだ。勇気を出して実現することは一般の人には難題であることもあるが、正義を叶える効果的な手法を考えれば良いのだ。

つまり、正義を灯台とすれば、自分の人生の行為も他人の行為も評価できるし、道も決められる。真摯に正義に向き合う人は、人生の指導を求めている。

だから、この指導が間違った方向に導けば、大変だ。

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