誤った正義

正義の指導が間違った方向に導く理由としてすぐに思い浮かぶのは、正義を見誤った状態だろう。つまり、正義であると思う理念は実は正義ではない状況だ。

些細な場合もある。例えば、ボランティア活動で社会に貢献することは正義に適うのを正しく判明したとしよう。そして、現実的な選択肢は災害の被災地での活動と近所の貧困の子供の支援活動だとしよう。いずれも貢献できるし、社会にいい影響を与えます。しかし、正義に適うために、子供支援をすべきだ。それでも、考えた上で、誤って被災地での活動を選ぶ。

確かに正義を見誤ったが、このような問題について心配すべきではない。人間はこのように間違えることもあるのは決まっている。このような誤りを悪徳の行為として批判する立場もあるが、正義の概念でこのような誤りが問題になったら、それは概念の問題であると私は思う。

実は、これは正義の問題であると思える。正義というのは、一つの正しい道を指すと思われるが、そうであれば被災地に向かうことは確かに正義に背く行為だ。正義の味方がこの問題を回避するために、正義で複数の許される選択肢が掲げられると主張できる。正しい選択肢は一つであると思われがちだが、そうではなくても正義は認められるだろう。

しかし、より深刻な問題がある。

まず、二人を考えよう。土地の所有権を争っている。両方は、自分には占有権があると思うし、その権利は正義に基づいているとも思う。だから、妥協するとは思えない。二人とも、正義のために争う。訴訟を起こして、負けた方が控訴することも予想できる。社会の秩序は悪い場合、暴力で奪い合うことにもなりかねない。

正義を譲らない二人であるからこそ解決策はない。しかし、少なくとも片方は間違っているのは明白だ。正義によると二人ともには占有権があれば、正義には根本的な瑕疵があるだろう。正義はそのような存在ではないので、片方または両方は正義の判断を間違っている。それに気づかせられたら解決できるが、そうするためにまず正義の本当の判断を把握しなければならない。それは難しいし、説得することも難しい。

さらに深刻な問題にもなれる。土地を争うのは個人ではなく、国家である場合、双方が正義を訴えながら戦争に陥ることがある。これは架空な仮説ではないのは周知の通りだ。

ここで、正義であると思うことは重要である。双方は同じ土地を好む場合、妥協する余地はある。争う恐れが完全になくなるとは言えないが、少なくともちゃんとした大人になった人の場合、好みの齟齬で激しく争わないだろう。交代交代で利用するか、それぞれ一分を利用するか、共有して協力しながら利用するか。思い浮かぶ妥協案は多い。

だが、正義に基づいて自分の土地であると思ったら、妥協するのは正義に反する行為だから、一歩も譲らない。

戦争は残酷な結果だが、さらに恐ろしい結果がある。

ある行為や理念は正義違反だと信じたら、その行為や理念を無くそうとする行動に乗り出す人は少なくない。そのような行為を行う人を説得できれば良いが、そう簡単に自分の理念を譲らない人も多い。その場合、悪徳だと判断した行為を犯す人や邪悪な理念を掲げる人に罰を与えたり、処刑に渡したりすることがある。場合によって、行為や理念を捨てたと強調する人も襲う。その理由は、本当に捨てたと信じないので、正義違反が起こるより、罪人を襲った方がマシだと判断することだ。極端な場合、罪を犯す前に絶滅させようとする行動もある。

これも架空な話ではない。ナチスドイツの行為やカンボジアの歴史がすぐに思い浮かぶ。

実は、歴史的な大きな罪の大半は、正義を求める人が犯したと言っても良いのではないか。正義を見誤ったら、巻き返しがつかない悲劇や罪が生まれることもある。

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