家庭祭祀は何のために執り行うのだろう。
基本的に、家庭のためであると言えるのではないか。つまり、社会の単位となる家庭という共同体のための祭祀であるのではないか。家庭の間の絆を強めたり、家庭の安全と繁栄を祈ったりする。繁栄というのは、ただ経済的に富裕になることとは限らない。家庭の人たちのそれぞれの資質向上も含まれている。自分をよりよくするための努力も、家庭祭祀の対象となる。家庭が一緒に向上することもそうである。お互いに支え合って、一緒に素晴らしいことを作り上げることを祈るのは相応しいのではないだろうか。
しかし、これで止まるわけにはいかない。家庭は社会の中で孤立させるべきではない。家庭は、社会との結びを持つべきである。自給自足ができる家庭ではない限り、結びを避けることは出来ないし、「自給自足」と言っても、一つの家庭であれば全ての必要なものを作るための技術を持つことは出来ないので、何かを外からもらわなければならない。人間は社会に暮らす生き物だから、祭祀にもその事実を反映させるべきである。
つまり、家庭と繋がりのある共同体について祈ることも相応しい。その共同体の和平、安全、繁栄を祈るのは良かろう。繋がっているので、一緒に繁栄しないと本当の繁栄にはならないし、結びのある人の繁栄を単純に見たい気持ちは人間らしい。
では、全世界はどうだろう。全世界は繋がりのある共同体とは言えない。確かに全ての人間が同じ地球に住んでいる(国際宇宙ステーションに滞在中の宇宙飛行士を除けば)が、近親感を持つことは出来ない。共同体を感じるために、内と外の対比は必要である。全世界を対象とすれば、それは共同体の一体感ではなく、理想や理念であろう。全世界をどうしてほしいと考えれば、それは理想であるので、理想の実現を祈ることも良かろう。
こういう風に語れば、同心丸のような形が思い浮かぶだろう。家庭、そして社会、そして普遍的な理想、というイメージである。しかし、家庭と世界に間に挟まれている「社会」は、それほど単純なものであるとは限らない。例えば、住まいの周辺の共同体と職業の共同体を考えれば、職業の共同体が全国的に広がる可能性は充分あるし、周辺には職業が異なる人も住むに違いない。このように部分的に重なる共同体を家庭祭祀で意識するのは重要だと思う。上述した通り、全世界には外はないので、共同体として感じることはできない。しかし、部分的に重なる共同体は、全世界を網羅することはできる。理論上、一人の人間が複数の共同体に入って、その共同体には夫々の外はあるものの、全てを合わせたら全世界が入っている状態さえ可能である。実際にそうならないと思うが、一方共同体の中の結びを七回ぐらい辿れば、全世界を網羅するだろう。
要するに、家庭祭祀は家庭とその家庭と繋がりのある共同体の絆と繁栄を祈るための行動であると言えよう。
君が代のさざれ石、小石が永久に積みかさなり一つの岩(礫岩)となるのだが、小石を家庭、そして礫岩を社会、國家と見做すこともできる。君(きみ)は成人男女を表し慶賀の歌。
苔のむすまで永久に輪廻転生してでも紐帯引き締め協力していこうという歌。
色々あるだろうけど、父は家庭を護ることです。
https://www.youtube.com/watch?v=2X0aFcPWhVs