疑う正義

ユダヤ人を虐殺するのが正義に適わないことは、今になって誰も疑わないだろう。しかし、そう思った人はナチスドイツに限らず、ヨーロッパの歴史には多数いた。中世や近世に、ユダヤ人が(1000年以上前に)キリストを殺したので、当時のユダヤ人を殺したり弾圧したりすることは正義だと主張した人は少なくなかった。その上、出鱈目な中傷に基づいて、反ユダヤ意識を煽った。それは悪極まりないだった。

私たちはそののような誤りを犯していないと確信するだろう。

だが、なぜ確信できるのか。

中世ヨーロッパで、ユダヤ教やユダヤ人を批判する環境を避けることはできなかった。常識だった。ユダヤ人として育ったとしても、その批判を日常生活で聞く。重要な倫理の一部は、ユダヤ人が最悪な行為を犯したことだった。確かに矛盾があった。(キリストもユダヤ人だったし。)それでも、多くの人から見たら疑う余地はなかっただろう。ユダヤ人が反論しても、それは自分の利益を得るための弁論に過ぎないと思われた。悪質な行為を犯す人がその行為を正当化しようとしても、受け入れるべきではないという考え方だった。

私たちも、中世のヨーロッパ人と同じような環境に置かれている可能性がある。排除できない。確かにユダヤ人についての問題ではないが、私たちが悪であると確信する行為や理念は、もしかして悪ではないかもしれない。その当事者が正しく訴えるが、無視される。

人間は間違える存在だ。倫理の基本についても間違えることも珍しくない。歴史を見渡せば、分かる。倫理についての意見が分かれることは多いので、誰が間違えたとは判断できなくても、誰かが間違えたと言える。そうではなければ、行為の良し悪しは人の立場によって違うし、争う双方は正しい可能性がある。その場合、正義はそもそも存在しない。正義が存在したら、人間が正義の内容についてよく間違えることを認めざるを得ない。

だから、自分の正義についての確信も間違っている可能性に配慮すべきだ。

どうやって配慮できるのだろうか。行動について、「正義について根本的に間違ったら、この行動をどう評価するか」と問うべきだと思う。しかし、そう考えたら、正義が明白な道標ではなくなる。正義であると判断しても、他の影響や結果を考えなければならない。そして、行動の結果は危ない場合、正義であると判断した行為は行わない。まだ倫理的にすべきことであると思うが、倫理についての誤りに配慮して、実行しない。

正義の立場から見れば、これは倫理違反である。他の要素のため正義の行動を行わないことは原則として許されない。

そして、間違える可能性はどうせ正義に限るわけではない。正義の行動を評価する基準はむしろ間違っている可能性にも配慮しなければならない。行動の明白な基準がなくなる。

それは、人間の置かれた状況であると私は思う。間違っていないと言える数少ない点の一つは、ほとんどのことについて間違っている可能性があるということだ。(間違っている可能性について間違っていたら、他の確信していることについて間違っている可能性もあるのではないか。)だから、明白な行動の基準は得られない。

そのような基準はなければ、正義を求めるべきではない。複数の異次元の基準に行動を照り合わせて判断すべきだ。

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