自然環境の崩壊を望む人は極めて少ない。これは確信している。それでも、現代社会はその崩壊に只管向かっている。この矛盾の原因は、人は自分の人生の崩壊を回避したい精神であると思われる。しかし、自分の人生を守ろうとする場合、社会的な環境が変わらないことを前提として考えるのは普通だし、必要な考慮でもある。田舎に住む人は、車を運転しなければ生活を送れない。車工場で働く人は、車を作ったり売ったりしないと、生活崩壊に陥る。それでも、車が自然環境の崩壊の一因になっている。一般の人は、食べるために、生物多様性を圧迫させる農業から得た食物を食べなければならない。その事実を把握しない事は多いし、知っていても目を瞑ることも多い。はっきり見ても、自分一人の行動変更で環境改善が実現される事は一切ないので、自分の人生を犠牲とする意味はない。
それでも、環境崩壊を望んでいない。だから、崩壊を避けながら生活ができる道を提供したら、その道を選ぶ人は多いのではないだろうか。話し合いでそのような道を見出せたら、自分の発見として感じて、さらに積極的に歩むのだろう。このような話し合いを推進するのは行政の役割なのではないかと私は思う。
また車の例を考えよう。車を環境にやさしい存在にするために、まず排気ガスをゼロにしなければならない。それは、電気自動車で、再生可能エネルギーで充電する仕組みだ。(水素の車は電気自動車の一種だ。車内で水素を使って発電する。いわゆる水素電池だ。)そして、鉱山で得た金属の利用をゼロに近い水準に抑えなければならない。それは循環型社会である。古い車に使った金属を再利用するしかない。それでも、車に道路は必要だが、道路が生物多様性に悪影響を与えるので、道路と車の数を抑えなければならない。車の製造販売会社が存続するために、売上は必要だが、その全てが車から発生する必要はない。車の製造を天職と思う人のために車の生産を続けてもいいが、台数を減らしてもいい。会社の売り上げを維持するために、別な商品を導入する。
このようなことを実現するために、行政が自動車製造会社の経営陣や労働組を集めて、詳細を話し合うべきだと思う。必要な目標を立てて、実現するための現実的な措置を論じる。その中で、行政からの助成金が必要となる分野も発生するだろう。そして、会社が著しい不利益を被らないために、規制も必要となるかもしれない。規制はないと、目標に向かって動く会社の今の売上高や利益がそうしない会社に比べて大きく劣って、経営難に陥ることもある恐れは考えられる。だから、業界が規制を求めることもある。そして、求めなくても、認めることもあるだろう。必ずしも必要であるとは言えなくても、目標に向かった動きの支えや促進になると認めることだ。
農業も同じだ。現在の農業は自然環境へ悪影響を与える。それを解消するために大きな改革は必要だが、農業は豊富な収入が発生する業界ではないので、農家にはそのような改革を導入する余裕はない。仮に資金があっても、計画を考える時間はないのは普通だ。行政が話し合いながら目標と方法を講じて、必要な助成金を用意すれば、農家が環境にやさしいやり方に切り替えると思われる。
いずれかの改革には努力が必要になる。しかし、人間は努力を避ける存在ではない。目的を目指したら、尽力する生き物である。目的への道が見えれば、進む。頓挫するのは、道さえ見えない場合だ。だから、行政には道を拓く役割が大きい。