仮にその結果が出るとしても、それで神様が存在すると言い切れるだろう。 勿論、そうではない。まず、この結果の説明は神様ではない可能性がある。実験の設定等を詳しく調べないと、その可能性に十分配慮しなければならない。そして、本当の確率は5割でも、この結果が偶然に発生する確率は20分の1である。高くないが、極めて低いとは言えない。「この飛行機が墜落する確率はただ20分の1だ」と言われたら、乗るはずはないだろう。 ベイズの定理を使って、確率を考えることはできる。...
回数の設定
適切な回数を考えるために、まず予想の確率を考えなければならない。これは非常に難しい。 勿論、神様が存在しない場合、予想する確率は5割だから、5割と区別できるような回数は必要である。しかし、神が存在する場合の確率を予想するのは容易ではない。 まず、神様には米が欲しい場合も飯が欲しい場合もあるだろう。そして、御神籤を完璧に操れない可能性もある。説得力のある確率を出すことはできないだろう。ただし、5割から著しく異ならないことは言える。なぜかというと、人が著しい差異に気づくからである。著しい差異があったら、既に報告されたはずである。だから、5割に近い水準を選ぶべきである。 計算できるために、6割にする。結果として、これはかなり大きな差を生み出すが、直ぐに気づくほどではない。...
供物の提供
神棚の祭祀の一部として供物を奉るのは重要である。そして、その供物の内容には多様性があるのは伝統である。お米が重要になるが、お米、ご飯、お餅等の形式があるし、季節の物の献饌もある。だから、供物の内容を変えても、伝統を鑑みれば、少なくとも神に失礼ではないと確信できる。そして、自分の気持ちに基づいて変えることはできると言われるので、実験の一部として変えても、それが問題にならない。 結果の分析を簡単にするために、二者択一の形にすべきだろう。今の段階で、神の影響の存否を問うので、簡素な実験形式は一番相応しい。そして、神饌の歴史を振り返れば、候補が直ぐに現れる。明治維新まで、所謂熟饌を奉ることは多かった。それは、ご飯や焼き魚を供えることだった。つまり、人間が食べらる状態で提供した。しかし、明治政府の祭祀改革以来、生で提供することが一般になった。...
個人の検討
神棚の祭祀には、神の存否が重要な要素になる。より厳密に言えば、神が神棚に存在するかどうかが重要である。神が存在しないと、拝礼がただ精神的な行為になる。そのような行動に大きな成果がある場合も少なくないので、それで軽視すべきではないが、本質が大きく変わることは間違いない。 実は、神社本庁等の神道を代表する組織の見解も曖昧である。神棚に奉斎するお札には神様が鎮座するかどうかは、持論が分かれるそうだ。そして、お札に神霊はないと主張する人の中で、遥拝の施設になると主張する人がいる。確かに、神棚に鎮座するか、遥拝するかは重要な違いであるが、神の存否の立場から変わらない。少なくとも、今の段階で区別することはできない。そして、お札はただの象徴で、特に霊力はないと主張する人もいる。神社界の中でそのような人は少数派であるような気がするが、確かに存在する。...
祈祷の効果
ご祈祷には効果があるのだろう。 それは神の存否を調べるための糸口の一つになる。確かに、決定的ではない。祈祷に効果はなければ、神が存在しないことが理由になり得るが、祈祷の方法は間違っている可能性もある。ある薬がある病気を治さないと、薬は一般的にダメであると結論しないと同じである。しかし、祈祷の形式を調整しても効果が出ない場合、神の存在は疑わしくなる。一方、祈祷に効果があっても、神が存在するとは限らない。その効果が発生する理由は神ではない可能性もあるからである。つまり、絶対的な関係はないが、祭祀の形についての占いと同時並行で行えば、証拠の一部を提供すると思われる。 では、どのように調べたら良かろうか。...
神と祭祀
祭祀について考えれば考えるほど、一つの問題が重要性を増すばかり。その問題は神の存在と性質である。 神社界が「祭りはただのイベントではない」とよく強調する。同じように、お札の尊厳を保つような行為も要求する。しかし、神は存在しないと、祭りはただのイベントである。伝統のあるイベントだが、本質には変わりはない。現状に合わせて調整したり工夫したりしても、それほど問題はないだろう。同じように、神が存在しなければ、お札はただの木簡に過ぎない。尊敬する必要は全くない。数年前に、ある神社でお守りを作成するワークショップに参加したが、その一部として神霊がまだ入っていないお札が配られた。神職が「まだ特別扱いしなくてもいいよ。神霊は入っていないから。」と言った。しかし、神霊が存在しないと、ずっとそのままである。...
神宮と伝統
では、神宮の古から連綿に続いてきた伝統が国民の特別崇拝の根拠になるのだろう。 伝統が存在することは事実である。さらに、日本の歴史と文化に深く根付いていることも明白である。神宮の伝統は素晴らしいし、大事にすべきである。 しかし、それだけで足りない。素晴らしい伝統を持つ神社は他にもある。遷宮の伝統といえば、春日大社も1200年以上の歴史を持つ遷宮の伝統を守っているし、春日大社で途絶えた期間もないそうだ。出雲大社も古から存在してきたし、独特の祭祀等を維持してきたし、天照大神との関係も深い。(出雲大社の神職の出雲国造家は天照大神の子孫であると神話が述べる。)大神神社は神宮より長い歴史を持つし(神話を信じれば)、重要な原始祭祀の様子を保つ。宗像大社も「海の正倉院」を持つし、歴史が始まる前からの伝統を持つ。諏訪大社も鹿島神宮も香取神宮も太古から伝統を守っている。神宮を特筆する根拠は明白ではない。...
神宮と天照大神
神宮は実に125の社からなる。その中で天照大神を奉祀するのは僅か数箇所に留まる。それでも、神宮が皇大神宮の御正殿のために存在すると言えるし、それは天照大神の和魂を奉祀する宮である。だから、神宮の崇拝が天照大神の崇拝と一致することは言える。 では、それが一般的に特別な崇拝を捧げる理由になるだろう。 天照大神は最高の神である主張は『古語拾遺』に見えるので、少なくとも9世紀初頭からある概念である。『古語拾遺』の主張で、天照大神が他の神を支配するかのように表現されているが、その後の表現が変わってきた。天照大神は一番貴い神であるが、支配する存在ではないと主張することは多くなってきた。...
神宮と皇室
神宮と皇室の間に深い関係があることは否めない。皇大神宮の御神体は八咫の鏡であるし、建立も天皇と関わった可能性は高いし、少なくとも天武天皇の時代から皇室と密接な関係を連綿と持ってきた。その為、皇室が神宮に対して格別な崇敬を表すのは当然であるし、適切であるのは自明である。 問題は、この歴史が他の人の特別な崇敬の理由になるか。それは明白ではない。...
神宮の地位
神社本庁が伊勢の神宮を「本宗」として奉斎するという。この「本宗」の意味は曖昧で、結局、神宮の特別な敬称であり、特定な意味はないと言えるかもしれない。ただ、神宮を尊重することは神道界で当然だが、他の神社を尊重することも当然だ。神宮の特別な地位は一体何だろう。 はっきりされたのは、天照大神が全ての神社で崇敬されている意味ではないことだ。そして、他の神様は天照大神の一部ではないし、天照大神への道標のような存在ではない。独立する神である。同じように、神宮が他の神社の祭祀の形を決めるわけではない。神宮の祭祀を模範とする場合はあるが、それは神社の自由である。神宮の権利等ではない。...
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