神と祭祀

祭祀について考えれば考えるほど、一つの問題が重要性を増すばかり。その問題は神の存在と性質である。

神社界が「祭りはただのイベントではない」とよく強調する。同じように、お札の尊厳を保つような行為も要求する。しかし、神は存在しないと、祭りはただのイベントである。伝統のあるイベントだが、本質には変わりはない。現状に合わせて調整したり工夫したりしても、それほど問題はないだろう。同じように、神が存在しなければ、お札はただの木簡に過ぎない。尊敬する必要は全くない。数年前に、ある神社でお守りを作成するワークショップに参加したが、その一部として神霊がまだ入っていないお札が配られた。神職が「まだ特別扱いしなくてもいいよ。神霊は入っていないから。」と言った。しかし、神霊が存在しないと、ずっとそのままである。

伝統的なイベントには価値はないわけではない。ただ、その価値は「祭り」の価値と違う。神の存否は重要な影響を与える。

そして、神の性質も重要である。神道の神学で神の性質は厳しく制限されていない、というより、ほぼ制限されていないと言えよう。しかし、仮に神が存在するとして、その上祭りは神のためであるとすれば、神の性質は大変重要である。

人類は性質を誤って、逆効果を出す行為を行ったことは少なくない。疫病対策として大勢に集まって祭りを行うことは世界中にあったが、伝染病の場合それが疫病の悪化を確保するしかない。伝統があるからと言って正しくやっているとは到底限らない。結果がすぐに目の前で明白にならない限り、大きく間違っている伝統が続く可能性に配慮しなければならない。

神道の祭祀も例外ではない。特に、現在の祭祀形式は大正時代の官僚によって定められたので、神の意志と寄り添う保証は全くないと言えないだろうか。神ごとに個人差があるかもしれないし、一般にも現行の祭祀制度の趣旨と違う可能性もある。

神道学を見れば、歴史学的や民俗学的な研究は大半である。これは、当然、神の質を問わなくてもできる研究である。しかし、現在の実践や強化活動も重要であるのではないか。これは、神の性質を把握しない限り答えられないことである。神のための祭りを趣旨とせずに強化活動と取り組めば、ただの宣伝や広報になる。営利目的になってしまうのは当たり前だ。他の目的を掲げていないからだ。

しかし、難しい問題である。記紀神話が証拠にならない。記紀神話を書き留めた人が真実を知っていた証拠はないからだ。正しい可能性を認めても、別な方法でそれを証明しなければならない。同じように、歴史的な神学も証拠にならない。ただ神話等に基づいて述べているので、根拠はない。古墳時代の人が神についてどう信じたかは確かに興味深い研究課題であるが、神の質とほぼ無関係だ。

だから、やはりこの問題と取り組まなければならない。

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