家庭祭祀の中で、原則として毎日執り行う祭祀に加えて、年中行事があるかと思われるだろう。神社の場合、毎日の日供があるが、秋祭などの毎年執り行う祭りの方が目立つ。しかし、神社を真似するために年中行事を導入するわけにはいかない。家庭祭祀としてどのような役割を担うかをきちんと考察しなければならない。 毎日の家庭祭祀と違って、年中行事は非日常になるのが良いのではないか。毎日の祭祀がちょっと大きな規模になることに止まったら、精神的に強い存在感はなさそうだ。そのため、時間をかなり使って、普段しないことをするのは良い。...
禊祓の儀式
家庭祭祀の禊祓を具体的にどうやって行えば良いのだろうか。 まず、沐浴と合わせて行うのが良かろう。毎日体を洗うのは原則であるので、合わせたらやりやすくなる。家庭内の日常の一部にしたい儀式は、日常生活の妨げになってはならない。そして、沐浴は実に御祓になるので、適切な基盤である。 動作として、神社での御祓の儀式で、何かを左右左に振ることは多い。祓え串とか塩水とか切り麻などが振られているが、その三回の動作で儀式の色が付く。だから、家庭の禊祓にも同じ動作を導入すれば良い。ただの体洗いではないと意識するのは重要である。 洗面器にお湯を入れて、左肩、そして右肩、そして最後にまた左肩に掛ける動作で御祓を行うと良かろう。自分で簡単にできることだし、お風呂の作業に簡単に入れられるので、大丈夫だろう。 その前に、祓詞が必要となろう。言葉はないと、儀式の意味を意識することが難しくなるからである。...
禊祓の目的
神棚祭祀以外の禊祓も家庭祭祀の一部として導入すれば良いと思う。それは、当然穢れの対策である。 まずは、汚れた体を綺麗にする必要がある。普通の沐浴は禊の重要な一部である。そして、この目的を家庭の中で重視するのも良い。汚れの穢れも重要な穢れであるので、惟神の道を歩めば、体を物理的に綺麗にすることも重要。 これは穢れを実際に祓う役割である。体を洗ったら、汚れの穢れは洗い流されるので、穢れがなくなる。しかし、これで止まらないと思う。穢れについての投稿で論じたが、穢れを無くすために、原則としてその穢れの実態を直すべきである。病気になったら、治るのが良い。生活が乱れていれば、その乱れを直す。体が汚れたら、洗う。この原則を忘れてはいけない。このような問題と取り組まずに儀式に依存すれば、結局穢れが溜まるので、悪影響が時間と共に大きくなる。...
神棚祭祀の御祓
神棚の祭祀は家庭内の毎日の祭祀ではあるが、祭祀であることは変わらない。祭祀は、日常生活と区切りを入れて行うべきである。そして、祭祀は、穢れが入らない時空間として見立てる。神饌の投稿で、神棚祭祀の後で神饌を夕飯として食べるのは良いと述べたが、それで夕飯が祭祀の最後の区切りになる。 祭祀の開始の印になるのは、当然御祓であろう。御祓で穢れがない状態を見立てるし、祭祀を執り行う心理も導入する。但し、家庭祭祀を毎日の行動としたいなら、御祓を長くしない方が良かろう。 祓詞として最短の「祓え給い、清め給え」は十分だろう。そして、できれば代表者が祓え串でまず自分を祓え、それから神饌と他の参列者を祓える。 儀式の次第とすれば、下記の通りだろう。 まず、祓え役が祓え串の前で一礼する。 そして、「祓え給い、清め給え」という祓詞を唱える。...
家庭の定義
家庭祭祀を斎行するのは家庭である。では、家庭というのは、何だろう。 家庭は、同居して生計と生活を一つとする人の集団であると定義したいのである。 現代の家庭の典型的なイメージは核家族だろう。それは間違いなく家庭の一例であるし、重要な一例でもある。しかし、それだけではない。まず、三世代世帯も家庭になる。このパターンが保守派によって理想として掲げられているが、四人兄弟の家族が多い時代に、親と同居できるのは一人にすぎないので、戦前でも少数派だったと思わざるを得ない。 しかし、家庭を考えれば、血縁や婚姻を必要条件としたくない。...
神棚祭祀の神饌
神棚の神饌をどうすれば良いのか。 神社本庁の資料によると、お米、お酒、お水、そしてお塩が良いそうだ。ただし、これは何を意味するのかは、はっきりされていない。その上、伝統としても、明治以降の祭祀規定にしか根拠しない。家庭祭祀の効果を強めるために神饌にも意味を込めるべきなのでは無いだろうか。 毎日同じものを奉らなくても良い。そして、特別に神饌を用意する手間を省くと良い。準備の時間を含んだ家庭祭祀が長引くと、意味がなくなるので、気をつけなければならない。絆や目的や理想のための実践的な活動に邪魔してはいけない。 まず、大切な人から頂いたものを神饌として供えると良いと思う。これで、くださった人との絆の重要性を認めるし、神饌の伝統も継承する。この場合、祝詞の中に神饌の描写を盛り込むと良い。それで、感謝などを明言できるし、意識をさらにはっきりさせられる。...
神棚祭祀の形式
神道的な家庭祭祀の中で、神棚祭祀は特に重要であると言えよう。ここで、読者には神棚祭祀の基本的な形式が分かることを前提に、その詳細を考えたいと思う。 目的と絆を思い出すために、適切な神を奉斎する。例えば、近所の共同体のために、氏神様の神符を奉斎する。学問を目的とすれば、天神のお札が良い。そして、特定の祝詞で斎行する。その祝詞の特徴の一つは、神の名前の前に、司る分野を描写することである。例えば、「学問を司る天神様」と言う。(それは祝詞っぽくないが、文言を後ほど考えるつもりだ。)その内容を口にすれば、髪が司る分野を思い出す。そして、人間なら、なぜこの分野を司る神様を奉斎しているかも、思い出す。絆と目的が目の前になる。...
祭祀としての働き
では、このような理想と結びを重視すれば、家庭祭祀は祭祀らしい役割を担えるのだろう。祭祀と言えば、一般的に意識と結びは重要であるので、そのために働けなければ、祭祀を行う意義が疑わしくなる。 まず、家庭祭祀で直接に感じられる結びは、家庭の間の絆である。家庭の絆を結ぶために、一緒に何かをするのは重要であるし、それは自分の家庭のことであるのも重要であろう。この観点から見れば、家庭が揃って祭祀に参加すれば、家庭の絆に直接に貢献すると言える。特に、家庭祭祀にはちょっと独特な側面があれば、自分の家庭のことをより実感できる。「うちで、こうする」という気持ちで、家庭の実感が強くなるのではないか。...
家庭祭祀の役割
家庭祭祀は何のために執り行うのだろう。 基本的に、家庭のためであると言えるのではないか。つまり、社会の単位となる家庭という共同体のための祭祀であるのではないか。家庭の間の絆を強めたり、家庭の安全と繁栄を祈ったりする。繁栄というのは、ただ経済的に富裕になることとは限らない。家庭の人たちのそれぞれの資質向上も含まれている。自分をよりよくするための努力も、家庭祭祀の対象となる。家庭が一緒に向上することもそうである。お互いに支え合って、一緒に素晴らしいことを作り上げることを祈るのは相応しいのではないだろうか。...
家庭祭祀の性質
家庭祭祀とは、一般の家庭の中で執り行う神道的な祭祀のことを言う。その世帯の祭祀で、私的な祭祀であるように見える。一方、神道の公共性は謳われているので、家庭祭祀には公共性があるのだろうか。 まず、一番単純な公共性はない。それは、誰でも参加できる公共性である。家庭祭祀には、家庭しか参列できない。来客も許されるだろうが、一般の人は参列できるまい。当たり前で当然なことである。 では、別な意味で公共性があるのだろう。つまり、祭祀の目的は公益であることなど。このように考えれば、あり得るだろう。家庭の祭祀に世界平和を祈ることはできるが、そうすれば或る意味の公共性がある。一方、ただ自分の家族が大金持ちになるように祈るばかりであれば、公共性はない。つまり、家庭祭祀に公共性を取り入れることもできるし、除外することもできるようである。...
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