カテゴリー神社祭祀

模様はない場合

占いで何も模様が見えてこない場合は、どうすれば良いのだろうか。 一つの選択肢は神の存在を否定して、計画を止めることである。それは科学的な方法なのではないかと思われるだろう。しかし、科学のやり方を検討すれば、本当は違う。一つの失敗で完全に辞めるのは大きな間違いで、科学の進歩を妨げる。科学者が実践の中でこのことを理解する。 結果が出ない理由はいくつかも考えられる。一つは、確かに神が存在しないことである。当然、存在しないと、神社にとって好ましくないし、意識を検討する方法がなくなる。それでも、事実はそうであれば、残念であるが、認めるべきである。...

占いの評価

占いの結果をどう評価するか。将来について占えば、実際にそうなるかどうかを調べることができる。科学の理論を試すと同じ概念である。しかし、ここで提案した占いは違う。神の意思の表現に止まるので、占いの結果と神の意思を比較することは基本である。ただ、神の意思を探る方法は、占いしかない。だから、占いの間違いをどうやって見つけられるのだろうか。 この問題は、実は科学でも発生するので、対応策は知られている。まず、結果の中の模様を探るのは解決策である。 人間の例を考えよう。ある人は、串を意図的に選んで晩御飯を注文するとしよう。その選択肢は寿司、トンカツ、ラーメン、カレーライス、そしてお好み焼きである。もちろん、毎回同じ結果になるとは限らない。気分によって変わるし、毎日同じものを食べたい人はほとんどいない。そのために、すぐに無作為な選択と区別できない。...

占いの方法

占いしようとすれば、方法は必要である。そして、その方法を神道の歴史から選ぶべきであろう。それは今回の祭祀の仮説の本質であるので、逆らう筈はない。 しかし、もう一つの重要な要素がある。占いの目的は、神の意思を探ることである。だから、人間の意思が邪魔する方法を避けた方が良い。 例えば、神憑りの託宣の場合、神懸かりとなる人の意思が混ざる恐れがある。わざと偽った託宣を言うことを考えなくても、無意識で自分の意思を表す可能性は十分ある。そして、どうやって神懸かりになれるか分からない場合、占いの開始さえが難しくなる。神懸かりが神道の祭祀から明治時代にほぼ払拭されたので、やり方を継承してきた人はもう少ないので、学ぶ機会も少ない。それでも、一番の問題は人間の意思の排除ができないことであろう。...

基本概念

神の為の祭りがどのような形を取るのだろうか。今の時点で、神の質がよくわからないが、神道の伝統に基づいて考える。 鎌倉時代の御成敗式目では有名な第一条がある。 神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。 これで考えれば、神の為の祭りでは敬いを形とするのは相応しいと思える。勿論、祈願祭でも畏敬を表意するが、神の為の祭りでそれは中心となる。 では、神に畏敬を表す方法は、具体的に何だろう。 まず、穢れのない状態で祀ることは大前提である。斎主の潔斎と斎場の御祓はとても重要である。 そして、神饌の奉納も重要である。神宝の奉納も芸能の奉納も畏敬の表現となるので、検討すべきであろう。 その上、祝詞の中で神への尊敬を表現するのは良い。この具体的な内容は、後で考えたいと思う。...

出発点と道

神道を出発点とするために、どうすれば良いのか。まずは、神の存在を前提とする。それは出発点の仮説であるので、まだ証拠が足りないのは当然である。検討する前に証拠があるわけはないだろう。 それでも、出発点をはっきりさせなければならない。祭祀をなぜ執り行っているか、そしてどういう風に執り行っているかをはっきりする。その説明は、神の存在や質の仮説に明らかに基づいていると良い。なぜかというと、検討が進むと、仮説を当然修正する。仮説の行動との関係をはっきりわからないと、どういう風に修正すべきかは分からない。 つまり、祭祀を神の質に基づく。祭祀の行動の目的もその仮説の中で説明して予想する。結果を評価する方法も先に考えておく。そして、実現すれば、結果が出る。その結果に基づいて仮説を修正して、祭りも修正して、さらに進むのは適切である。...

祭祀の検討

神に相当する存在は本当にあれば、分かった方が良いと誰でも思うのではないか。ちょっと失礼だが、病気と例えよう。病気は人類誕生から憑き物だったが、その原因は最初からわかったとは言えない。しかし、分かる価値があることは明らかだったので、医学者が数百年の検討を積み重ねて調べてきた。その結果、最初の仮説と完全に違う状態になっているが、分かる病気はもう過半数になっている。そして、その理解に基づいて過去に奇跡として見なされただろう効果のある治療法も開発してきた。最初の理論は覆されて、夢にも見えなかったことになったが、そのために最初の仮説は必要不可欠だった。それはなかったら、第一歩さえ踏めなかった。 同じように、神の存在を検討するために、出発点の仮説は必要である。出発点にすぎないので、その仮説に執着してはいけない。研究が進むと潔く捨てる必要も生じることはほぼ確実である。...

神の有無

神社の祭祀の主役は神の為の祭りであれば、神の存在を前提としているのは明らかだろう。存在していない神の為に祭りを執り行う意味はないと言わざるを得ない。 確かにその通りである。最初に、神の存在を前提として論じると断っておいた。しかし、これでただの小説の為の架空な祭祀の話をするつもりはない。家庭祭祀と違って、私は実現できる環境に置かれていないが、実現される為の枠組みを提供するつもりだ。だから、神の存在についてはっきり考えた方が良いのではないかと思われるだろう。 ただ、これが難しい問題になる。...

祭りの種類

神社は、誰でも拝める神の祭りのための専用施設であると定義した。そのような施設の中の作法や儀式について論じる前に、祭りについて考えておきたいと思う。 祭りは多種多様である。神職が一人で行う毎日の祭りから伊勢の神宮の式年遷宮まで、規模も内容も千差万別だ。それでも、基本的に二つに分けられると思ってきた。 神の為の祭りと参拝者のための祭りがあると思う。 一般に思い浮かぶ祭りの中で、参拝者のための祭りは圧倒的に多い。七五三等の人生儀礼は参拝者のためで、疫病を防ぐ祗園祭も参拝者のためである。祈年祭と新嘗祭も同じである。祈年祭が豊穣を願うし、新嘗祭はその稔った豊穣を感謝する。しかし、例えば遷座祭は神の為である。遷座祭は、ただ神を新しい神殿に遷ってもらうための祭祀であるので、参拝者の事情と関係しない。...

神社の本質

神社の祭祀を考える前に、神社の本質等を考えなければならない。神社と神棚の違いは何だろう。神社本庁によると、神社は「土の上、空の下」であると言われると聞いたことがあるが、それはただ他の建物の中に存在できない。(そのため、神社本庁の神殿は神社ではないし、「神社」と呼ぶことも一回も見たことはない。)しかし、それは表面的な特徴であると感じるのではないだろうか。より根本的な特徴を考えた方が良い。...

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