模様はない場合

占いで何も模様が見えてこない場合は、どうすれば良いのだろうか。

一つの選択肢は神の存在を否定して、計画を止めることである。それは科学的な方法なのではないかと思われるだろう。しかし、科学のやり方を検討すれば、本当は違う。一つの失敗で完全に辞めるのは大きな間違いで、科学の進歩を妨げる。科学者が実践の中でこのことを理解する。

結果が出ない理由はいくつかも考えられる。一つは、確かに神が存在しないことである。当然、存在しないと、神社にとって好ましくないし、意識を検討する方法がなくなる。それでも、事実はそうであれば、残念であるが、認めるべきである。

しかし、拙速で認めるべきではない。実験の失敗の原因として、他の理由もあり得る。例えば、占いの方法は適切ではないことも考えられる。前述した方法では、神は筒の中の串を操ることができるのは前提である。神でもただ筒を見て、何が出るかと予想することしかできない場合、占いにならない。神の意思も排除されてしまう。神の本質はまだ分からないので、この可能性に配慮しなければならない。つまり、串の籤引きが効かなければ、方法を調整することも必要である。例えば、サイコロのような物を使って、筒の中に閉じ込めない方法を試すのは良い。そして、木片を操る方法以外の方法も考えても良かろう。実験法を考えだす能力は、一流の研究者の実力の一つであるので、ここですぐに出せないが、その必要性はまだないだろう。最初の方法も試さない限り、結果があるかどうか分からないからである。

そして、もう一つの可能性は、神は提供されて選択肢の間で好き嫌いはないので、長期的に模様が出ない状態である。ある神饌の気分になる期間があるが、後で別な神饌に偏るので、長期的に模様が現れない。この仮説も排除できない。対応するために、選択肢を変えるべきである。

占いの環境も変えることを試すことはできる。例えば、占う人の潔斎に気をつけることがある。神道の歴史を見たら、もしかして女性が行うべきだろう。それとも子供。場所も色々な候補がある。拝殿の中か、本殿の中か、神殿の外で境内の中か。神の本質が分からないので、沢山の方法を試して、効果のある方法を探るしかない。

このような方針は、神が実存しなければ、科学者として時間の無駄になる。だから、科学者は神の不存在論を唱えて、止める。しかし、神職として時間の無駄ではない。あくまでも神事を取り行っているので、自分の宿命を果たしている。つまり、神職が永遠まで新しい方法を試しても、神職として悪いことをしていない。そして、神の存在を前提として、神の意思を把握する方法を広く探れば、いつか大発見がある可能性もある。存在の証拠はないことと不存在の証拠があることは違う。長い間存在する証拠がなければ、存在しないと結論すべきであろうが、「長い間」の定義は人の立場によって異なる。神職であれば、一生探り続けるのは適切なのではないか。

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