強制と促進

国家には強制力がなければならない。しかし、強制的に住民の自由を制限する行為を慎重に考えるべきである。意志の尊厳に考慮して、他人の自由と可能性を保護するためにしか自由を制限しないほうが良い。というより、この範囲を逸脱すれば、国家の権力の濫用であると言いたくなる。

前にも指摘したが、自由と可能性の保障の範囲は意外と広い。それでも、無限では無い。強制以外の促進を認めるべきである。

促進は、ある行動を公的に褒めたり勧めたりすることだけでは無い。ある行動をよりやりやすくしたり、やりにくくしたりする行為も入っている。例えば、タバコ税は促進の範囲に入る。強制的では無い。タバコを吸いたい人は吸える。しかし、値段が高くなるので、経済的な理由で吸わないこととする人もいるのでは無いか。このような行為は、政権が取るべき場合もある。

大別したら、種類は二つだろう。

一つは、ある行動が少数の人によって実現されたら問題にはならないが、多数の人が取れば他の人の自由と可能性を大きく制限する場合である。その場合、問題の行動が広がると、禁じるしか無い。しかし、禁じる行為は、自由と可能性を制限することだから、避けたいのだ。もし、普及しないように工夫できれば、その行動を強く志す人には許すことはできる。

例えば、夜中に歌いながら道を歩き回る行動を考えよう。ある街にはそうする一人がいても、大きな問題では無い。一方、数百人がいれば、住民の睡眠を妨害するので、社会問題になる。このような行動が普及してしまったら、禁じるしか無いだろう。その場合、人気度が下がったら解禁するべきであるが、実際の行政の活動を見れば、そのような余裕があることは少ない。禁止令に違反したい人は少ない。(そうでは無いと、解禁すべきでは無い。)だから、政治家への圧力も少ない。その結果、永遠に禁じられる恐れがある。それを避けるために、最初から禁じない方針を促進した方が良かろう。

ここで重要な一種がある。それは環境汚染のような問題で、一人の行動には小さな悪影響があるが、沢山の人が同じことをすれば、悪影響が多くなる。汚染対策はこの概念に入ることは多いだろう。

もう一つは、人間の弱みである。つまり、人間のありがちな間違い。例えば、タバコを吸えば、肺癌の確率が非常に上がる。肺癌で死にたい人は少ないと思われるので、望ましい結末では無い。一方、タバコには依存力があるので、一旦吸えば、辞めるのは難しい。だから、政権は人が思わずタバコ依存にならないように政策を講じても良い。一方、タバコを禁じることはよく無いだろう。どうしてもタバコは吸いたいという人がいるからである。そのような人にタバコを吸う選択肢を残すべきであるが、意図的に選んだことを確保すべきでもある。

促進の行政行為は、間接的に意志の尊厳を支えると言えよう。促進の行為によって、意志がつい損なわれないようにするし、強制的な制限を最低限に抑えることもできる。このような行為を許さなければ、結局意志の活動範囲が狭まる。

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