生活の方針として惟神の道を考えれば、誘惑を考えなければならない。誘惑は一般に「してはいけないことへの誘い」と考えられているのではないだろうか。しかし、私はちょっと違う観点から見たいのである。促された行動より、誘惑自体を考えた方が良いのではないかと私は思う。
誘惑は、長期的な計画を覆して行動するほどの強さを持つ誘致であると言えよう。身近な例を掲げると、ダイエットすることを決めたのに、美味しそうなケーキを見て、「これだけね」を食べることを決めることは、誘惑に負けることである。一方、意欲は如何に強くても、計画に沿っていれば、誘惑にはならない。例えば、野球が大好きな少年は、野球ばかりしたいとしよう。その少年の計画は、できれば野球選手になって、少なくとも高校の野球部に入って甲子園に出ることであれば、その野球の意欲が誘惑にならない。むしろ、計画の支柱になる。一方、少年の計画は医者になることであれば、野球は大きな誘惑になる。野球に費やす時間は、医者になる夢の実現に貢献しないからである。
これで、誘惑はある人の計画を乱す意欲なので、誘惑は必ず悪質であると言える。しかし、人によって計画が異なるので、何の行動が誘惑になるかは、人によって異なる。その為、惟神の道で誘惑を克服すべきであると言えるが、それだけに具体的なことはまだ言っていない。
そして、誘惑を大別して三つの範疇にできる。これは行動の本質によって決まる。それは、有害な行動、中立な行動、そして有益な行動である。
有益な行動は、例えば勉強である。勉強に誘惑されて負けたら何かを習得する。利益がある。その利益は自分の計画に貢献しなければ、本当に誘惑だったが、悲劇にはならないだろう。私は、この誘惑を感じる。何でも勉強したいが、全てを勉強する時間はない。寿命に制限があるからだ。このような誘惑は、本人として慎重に扱うべきだろう。
中立な行動は、特に良い影響も悪影響もない行動である。多くの娯楽の誘惑はこの範疇に入ると思う。漫画を読むこと、映画を見ること、ゲームをやることは、楽しいけれども、長期的な良い結果はそれほどない。これで、ストレス発散のために良いこともあるので、計画的にする行動でもあるが、誘惑になることは否めない。
有害な行動は、本人や他人に悪影響を与える行動である。顕著な例は麻薬である(タバコもお酒も含む)。体に化学的な悪影響を与えるし、大きな誘惑になりかねない。
このような範疇に対する適切な態度が異なるのは明らかだろう。誘惑の行動は有益であれば、誘惑に降伏して、計画を変更することも考えられる方針である。中立の行動の場合、目的とする訳にはいかないが、リフレッシュするためにやっても良いので、たまに自分をやらせる戦略で誘惑を制御しても良い。しかし、有害な行動であれば、完全な克服しか目指せない。
上記の通り、「誘惑」の内容は人によって違うし、惟神の道から一般に指摘することもあるとしても、それは別な生き方と違うので、具体的に考えなければならない。それでも、ほぼ世界共通で誘惑として認められている行動がある。それは人間の意欲は非常に強くて、すぐに計画を乱す行動である。一般に考えられる「悪いこと」である。性的な行為、麻薬の使用、賭博、怠慢、食べ過ぎなどである。これも、それぞれ考えなければならない。
誘惑は問題であれば、どうやって向き合うのか。