賭博

賭博

賭博の依存性が最近カジノを含む統合型リゾート法の成立で話題となった。惟神の道から見れば、どうだろう。

まず、賭博とは何かと考えよう。典型的な形はお金を掛けて、さらなるお金をもらおうとする行動だが、それだけではない。かけるものももらおうとするものも場合によって違う。根本的な質は、成果が事前にわからないままで何かをその成果のために費やすことと言えよう。かなり抽象的であるが、このように考えれば人間は賭博に誘惑される理由が分かる。殆どの有益な行動が賭博になるからである。多くの場合、始まる前に成果がどうなるかはわからないが、それでも努力する。そのように考えれば、この投稿も賭博である。書くために時間も労力も費やしているが、その成果は分からない。人の反応がどうなるか、私の理解にどれほど貢献するか、それは事前に分からない。

だから、ある意味で賭博は産霊と結びに必要不可欠である。創造や成長のために、事前に成果の測れない行動を取らなければならないし、結びを強めるために効果があるかどうか分からない手段を選ばなければならない。

反論として、成果の確率が高い道を選ぶことはできると言われるだろう。確かにその場合もある。例えば、言語を学ぼうとしたら、毎日1時間以上勉強すれば、数年間でその言語を取得するのは決まっている。自己管理力と忍耐力は必要であるが、賭博であるとは到底言えない。しかし、産霊も結びも、そのような状況ばかりではない。

例えば、美術作品を作成しようとする人を考えよう。継続力と忍耐力があればこそ、何かが現れるのは確実だが、価値のある作品になるかどうかは、事前に分からない。計画通り現れても、実物を見て価値は意外と低いことがわかる場合もある。一方、ある人と結びを作ろうとする場合も同じである。結局どのような関係になるかは、事前に分からない。相手を間違えて、最悪な縁を結ぶ場合もこの世にあるのは周知の通りだろう。それに対して、最高な縁を結ぶ人もいる。この差は、当事者の努力などだけではない。

このような賭博を促したいと思う。産霊や結びのために、人生をかけるべきである。失敗の場合は悲劇であり悲惨であるし、その被害者を助けたり慰めたりするべきではあるが、その為に成功への道を閉ざす訳にはいかない。

では、遊びの賭博はどうだろう。これはカジノなどのすぐに思い浮かぶ賭博である。政治理念で社会問題として取り扱うが、惟神の道を論じる場合、市民の立場から考えている。このような賭博は産霊と結びに貢献しない。(貢献すれば、推薦する範疇に入る。)そして、誘惑になる。だから、慎重に扱うべきだろう。絶対的に禁じる理由はないが、ちょっと危険を帯びる遊びであるので、気軽に手を出さない方が良い。例えば、やろうとしたら、事前に時間と金額を決めて、その限度を上回ることはできないようにした方が良いだろう。

問題にならない例として、毎週六人程度の友人と集まって、麻雀などに一人当たり五千円をかけて、勝利を得る人がお金を受けることとする計画を挙げよう。(麻雀はさっぱり分からないので、その形は変かもしれない。それでも、意味がわかると思う。)友達と一緒に楽しむ行動は、実は結びに貢献するので、評価できる副作用がある。そして、毎週負けても、一週間五千円の損傷にとどまるので、生活を崩すわけはない。(低所得者であれば違うだろうが、その場合を想定していない。)そして、限度が超えられないように、友達がお互いに見守る。このような賭博は、個人的に好まないが、問題は一切ないと思う。

スポーツ観察も問題にならない例だろう。スポーツ観察の楽しみの大半は、自分が応援する選手が勝つかどうかは事前に分からないことにあるので、時間を費やして、どれほど喜ぶかを結果に任せる。

ただし、遊びの賭博には問題はないとは言え、産霊にも結びにもそれほど貢献しないので、促すまでには至らない。

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