誘惑と言えば、色欲と性的な行為がすぐに思い浮かぶ。「誘惑」の典型例でもあるし、代名詞にもなっている。誘惑を論じれば、見逃してはいけない。その上、個人的に、典型的な誘惑の中で、誘惑として感じる唯一の例である。麻薬等や賭博の誘惑はほとんど感じないが、色欲は普通にあるし、色欲のために必ずしも賢明とは言えない行動をしたこともある。読者数がわからないうちに、私に役に立つことを考えるのは一番なので、性的な誘惑に特に時間を費やす。
その上、惟神の道から見れば、特に難しい問題になる。その理由は三つある。
第一は、人間に自然に発生する強い意欲であること。確かに、色欲を感じない人は存在するが、非常に異例である。私は、お酒や賭博の誘惑を感じないことでちょっと珍しくなるが、ちょっと珍しいだけだ。色欲はない人は、大変珍しくて、明かしても信じてもらえない場合は多いのである。そのような人が存在すると確信しているが、非常に少ない。つまり、誰にでも問題になると言えるほどの誘惑である。
第二は、色欲の強さである。恋愛の結びの投稿でも触れたが、色欲が他の意欲や義務を覆すほど強い。これは周知の通り。人が性のために馬鹿なことをしたら、批判するが、驚かない。(驚けば、「あれに性的な興味を持っていたの?へぇぇぇ!」ぐらいだろう。)計画は「色欲のままにしよう」ではない限り、(そしてほとんどの人はあの好色一代男ではないので、そうではない場合はほとんどである)計画の邪魔になる。実は、色欲を第一優先としても、色欲が邪魔になる。ある人を狙っている間に別な人に誘惑されて失敗することはあり得る。つまり、誰にでも大きな問題である。
第三は、その「しかし」である。子供を産むのは、産霊の重大な表現の一つである。性的行為はない限り、産めない。(現代なら、厳密に言えばそうではないが、人工授精はまだ手間などがかかるし、成功率はそれほど高くない。)その上、恋愛の結びで論じたように、結びの建築に大きく貢献することもある。つまり、惟神の道で促すべき要素もある。それでも、みだりに子供を設けたり、性的関係を結んだりしたら、それも問題になるので、色欲の強さが良い点にも問題を起こす。
その上、私は性的な行為は本質的に悪くはないと思う。寧ろ、良いと強調したいのである。楽しみと娯楽はいいことだし、相手を喜ばせることも結びの中で良いことである。確かに悪質な性的行為も存在するが、主にそうではない。間違えて性的な行為を行ったら、後悔するべきのは、その行為自体ではなく、その行為のためにできなかったこと、又はその行為から発生した結果である。行為の問題点は、性的な性質にはない。
要するに、色欲に対する態度を決めなければならない。必ず人生の道に重要な影響を与える。それと同時に、適切な態度を見出すのは容易ではない。ここで、それについて論じたいと思う。伝統的な倫理観と多少異なる結果になるだろう。
高校時代、弓道部だったのですが、後輩の女子に言い寄られて困ってた。
お尻触ってくるし、妹になると言ってくるし。大学では可愛いと言われるし、トラウマ。
普段は一回洗って二番煎じのお米の研ぎ汁で洗顔し、泡立てた石鹸で擦らず「泡」で洗う。
化粧水次に乳液で肌を保つ。乳液で顔のリンパマッサージもする。
あとコーヒーは肌に良いし(一日二杯まで)、ナスの皮はナスニンという物質があり、とても肌にいい。