裸と性

裸と性の関係は明白ではない。必然的な関係はないのは明らかである。一人でお風呂に入ることは性的な行為ではないが、裸になるのは一般的だ。逆に、裸にならずに性的な行為を行うことはできる。(詳しい情報が欲しかったら、ネット検索でどうぞ。)それでも、無関係ではない。

色欲との関係から始めたいと思う。原則として、他人の露出された体を見ることは、色欲を彷彿させる。個人の好みは程度に強い影響を与えるが、基本的な効果があるようである。そして、その色欲から影響を受ける。相手を味方とすることは多いが、刺激は強すぎて反発を招くこともある。それで、特定の人の裸に慣れることはできる。慣れたら、その人の裸から影響をそれほど受けない。しかし、一般的に慣れることできない。現在社会では、男性にとって女性の裸を見る機会は(ネット上で)溢れる。(逆もそうである。)それでも、男性の興味がなくなる兆しは一切見られていない。

これで言えることは、自分の裸を露出すれば、見る人の感情を不安定させるのである。見る側が喜ぶ場合もあるが、産霊や結びに邪魔になることはあるので、みだりに裸を露出すべきではない。裸ではないが、体を魅力的に見せる服も同じである。周りの人が冷静に考えられるようにするのは原則である。

一方、一人の場合、裸になっても全く問題はない。見る人はいないからである。

この原則は恥の淵源なのではないかと私は思う。周りの人に迷惑をかけないように恥を感じさせるという考えだ。しかし、方法として恥は良くないと思わざるを得ない。大正時代に東京の百貨店での火事でパンツを履いていない着物姿の女性は見られないように梯子で避難することを拒否して死んだという話は事実ではないだろうが、現実味がある。それは明らかに良くない。同じように、着替え中見られたら精神的な被害を負うことは恥の結果であるが、不要な被害であるし、不要な脆弱でもある。その上、恥が特定な部分に集中すれば、本来の効果がなくなる。現在なら、女性は乳首、お尻、陰部を恥じることは多いが、その三つを隠しても周りの人の感情を十分狂わせることはできる。

だから、惟神の道で考えれば、正しい方針は違うと思う。

まずは、特定の場面で自分の裸は老若男女に見られても平気の精神は重要である。その場面は特別で普通ではないが、基本的に見られるのは問題ないと思ったほうが良い。そうなったら、盗撮の被害がなくなる。脆弱がなくなるからである。そして、緊急な事態で裸で避難することは恥しない。

その上、普通に自分の服で露出や体の示唆が余らないように気をつける。それは自分のためではない。素っ裸で見られても平気であることを仮定している。寧ろ、周りの人に邪魔にならないように気をつけることである。

これで、江戸時代以前の日本の伝統が役に立つ。混浴温泉や銭湯は特別な場面だし、裸になる理由は明らかにあるので、見られることに慣れるために良い。そして、和服で体の形がほぼ完璧に隠されるので、周りの人の性的な迷惑を避けるために最適だろう。さらに裸の場合を考えれば、水着を着用しても、周りの人の視線を集める場合は少なくないので、水泳を原則として裸ですることとしても良い。禊も候補になる。一方、伝統ではないが、医者にも体を見せることを恥じて、健康の問題を起こす人は少なくないようだから、検診を原則として裸で受けても良いのだろう。

詳細は考えても良いが、基本は特定の場面で一般に見られる状態でも裸になるが、それ以外色欲を沸かさないように服を着る方針が良いと思う。重要なのは、その裸になる方針は社会的に決めることである。裸で見られたい色欲もそれほど珍しくないので、個人に委ねれば色欲がまた問題を起こす。でも、今は裸が余計に問題を起こすので、正すべきなのではないか。

4 コメント

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  • 羞恥心の無い女性は嫌いです。
    恥じらいながら、はだけた衣服を直す姿は唆られます。
    これは美学だよ。弓道の胸当てが色っぽく感じるのは自分だけだろうか。

    • コメントをありがとうございます。私は、美学を社会構成の根拠にすべきではないと思っています。社会は美術作品ではなく、人間の生活する場ですので、基準は根本的に違います。歴史的に特に女性の服装や振る舞いを男性の美学意識によって定めることは多かったですが、それは女性の成長や発展に貢献した問いは言いがたいのです。

      自分の美意識で自分の服装などを整えるのは良いのですが、一般的に産霊のために環境を整えるべきであると私は思っています。

      • 謬見を述べたのではなく、個人的な趣向を述べたまでです。
        孟母三遷の教え同様、情事も雰囲気が肝要。

        >前述の山田専務のコメントにも、転落した女性がいたとは掲載されているが転落「死」とは掲載されていない。ただ、2階や3階まで壁づたいに降りて来て、本当に着物の裾(すそ)や股を押えたために落ちてしまった女性が何人もいたのも事実のようであるが、彼女たちは全員、死亡ではなく、負傷で済んだようである。
        白木屋の大火災
        http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/061shirokiya.htm

        よく知ってますね。美学というと、大正時代の和洋折衷の街並みが好きです。
        それに憧れて、大正ロマン的な生活を送る女性がいるのですが。

        • コメントをありがとうございます。白木屋の情報もありがとうございます。本格的に調べることはありませんでしたので、勉強になりました。

          個人的に、私も大正時代の街並みなどが好きです。和洋折衷ができた時代のような印象です。(明治時代で、まだ試行錯誤で雪中を模索したように見えるし、昭和になると別な問題が発生します。)

          ところで、個人的な美意識はもちろん自由です。ただ、「本当にそのような感じるのはいい」と思ったら、その実現に問題がある場合は少なくない。恥を感じないのに、恥を演じる女性でも良かったら問題は全くありませんけれども。美学のためにある状態を自分で目指すが、余儀なく外されたら平気で立て直す態度は歓迎しますが、美学がそれより強く行動を拘束してはいけないと思います。(孟母三遷ですが、環境の影響は確かに強いですが、葬式も商人もない社会は困りますので、慎重に考えるべきなのではないかと思わざるを得ません。)

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