性の基本は相手との性的な行為であると捉える。基本は全てではないが、基本が分からないとその他の要素を理解するのは困難である。相手との性的な行為が基本となる理由は特に挙げられない。明白に見えるだけである。違う見方もあるかもしれないが、結局全ての側面から考えるつもりだから、出発点の選択が大きな問題にならないと思う。有力な反論があれば、考え直すが、とりあえずこのように進めたいと思う。
二人の間に活発的な性的な関係があれば、それは結びに大きく貢献する場合は多い。お互いの理解度、お互いの寛容、お互いの受け入れにも貢献する。恋愛の結びはもちろん、友人の結びにも家庭の結びにも適切である。このような性的な行為を行うのは良いことである。惟神の道の基本価値観の一つの結びに強く貢献するからである。これは、子供の出産と全く関係のないことである。相手同士の結びの発展自体は良い。
ここで但し書きが必要となる。
まず、この様な成果は、相手は異性でも同性でも変わらない。どちらを追求するのは、本人の好みに任せても良い。事前に決まらなくても良い。同性愛になっても、積極的に追求して実現することは、惟神の道で促す行為である。
そして、相手は一人に限らなくても構わない。複数の人と強い結びを持つことはできるし、性的な行為でそれぞれ強めることもできる。
ここで、但し書きに但し書きがある。三、四人の相手まで結びを性的な行為で強めることはできるだろうが、その数を超えれば難しいのではないか。一人に与えられる時間が制限されてしまうので、結びを深めることはできなくなる。もちろん、一人に限っても良い。二人のために時間を見つけるのは容易ではないが、無理ではないし、結びによってちょうどよくなることもあるのではないか。そして、ある結びのために別な結びを犠牲とすれば、それは一概に良いとは言えない。つまり、一人の相手を裏切って別な相手と性的な行為をしてはいけない。正直などについても論じたいけれども、それは別な機会になる。ここで、正直に全ての相手に状況を分かってもらうのは必須であることを指摘する。
このようなことを考えれば、複数の相手が主流になり得ないと私は思う。一つは、それほどの人との親しい関係を保つのは容易ではないと感じるからである。(それは、私は非常に内向性を持っているからかもしれない。外向性の人は、問題を感じないだろう。)もう一つは、嫉妬の問題である。理論上賛成できる人でも、いざとなると容認できないことに気づくこともあるだろう。嫉妬は性格の欠点の一つだから、絶対的な拒否権の根拠にはならないが、結びが結局犠牲になることと繋がる場合に配慮しなければならない。それでも、複数の結びを維持して深めることはできる人は、そうしたら推薦する。
次の但し書きだが、他の結びとの関係に配慮しなければならない。特に、複数の人と関係の事柄上平等な結びを持つべきである場合、その中から特定の数人との性的な関係を結んではならない。色欲は強いし、性的な関係も強いので、保つべき平等を維持することはできない。「私なら保てる」と思う人はいるだろうが、その大半は間違っている。だから避けるべきである。具体例として、大学の教授とゼミの学生や上司と部下がすぐに思い浮かぶ。確かに部下は四人しかいない場合、上司が平等に皆と性的な関係を結んだら問題にならないが、全ての部下がそのような関係を望むことはほとんどないので、小説以外見えない状態なのではないだろうか。部下やゼミの学生は十数人であれば、そもそも無理であるので、完全に避けるべきである。この配慮点は、結びに貢献する性的な行為に限らない。性的な行為には強い影響力があるので、ただの遊びでも同じ問題が発生する。一方、同僚の間に平等を保つ必要はない場合は多いので、その場合職場恋愛は問題ない。同じように、学生同士の恋愛や性的行為は問題ないし、教授と学問上無関係な学生との関係もこの観点から見れば問題はない。
このような結びは一生の結びとは限らないが、一夜の結びでもない。一夜の性的な関係は悪質ではないが、積極的に促す行為ではない。結びに貢献しないので、中立的な誘惑の範疇に入る。だから、趣味として批判しないが、促さない。
但し書きを考えた上で積極的に相手との性的な行為を追求して活発に実現することは、惟神の道で高く評価する行動である、褒めるべき活動でもある。