「明」が明るくて光ることを連想させるだろう。惟神の道の理念として、「正」で得た知識を提供する行動を指す。いつでもどこでもお説教すると言う意味ではないのは言うまでもないと祈って已まないが、積極的な意味も含まれている。
それでも、消極的な意味を忘れてはならない。消極的な意味は、事実と異なることを信じさせない理念である。周りの人に嘘を信じさせることは「明」の理念に背く。もちろん、堂々と嘘をつくのは「明」から遠く離れている。しかし、言葉は正しいけれども、文脈などから間違った意見に誘導することがわかったら、言い方を変えるべきである。同じように、沈黙で間違えさせる行動もよくない。自分の誤りで他人に不確かな情報を伝えることも、「明」に違反する。確かに、自分で真摯に信じれば、相手に伝えるのは判断として批判できない行動だが、本当に間違っていれば、「明」に違反する。「明」を保つために、「正」に励むしかない。
この消極的な「明」で、惟神の道が嘘を批判する。しかし、「正」や「直」と同じように、「明」は唯一の理念ではない。場合によって、他の価値を護るために「明」から逸脱するしかないこともあり得る。それでも、なるべく「明」に近い方法で対応すべきである。
積極的な「明」は、説明すること、教えることを指すだろう。自分の知識の範囲内にある質問が訊かれたら、原則として適切に答えるべきである。そして、自分の人生の活動として教えることを選択することは、惟神の道の立場から高く評価できる。産霊と結びとの関連は強いし、「明」と「正」にも深く関わるからである。
但し書きも付け加えたいのだ。まずは、積極的な活動は当然時間と努力を要する。惟神の道の理念だけを考えれば、産霊の実現の中で「明」と深い関係を持たない活動は少なくないし、結びも同じである。だから、積極的に明を求める行動は少なくても良い。理論的に全くしなくても良いが、実際の人生の中でちょっと教えるべきことが発生するのはほぼ不可避であると思われるだろう。あるとしても、少なくなることは十分あり得る。例えば、演舞で産霊を重視する人は、先生にならない限りあまり教えないと思われるが、惟神の道の中で立派な人生になるだろう。一方、消極的な明は人生を問わずに重視すべきである。消極的な側面は、他の理由のためにやっていることで明に違反しないことであるので、人生は何であっても考慮すべき理念である。
最後に、明と助言の違いを指摘したい。明は、事実を教えたり説明したりすることであるので、確かに助言の一部である。ただし、助言の重要な側面は、やるべきことを示唆したり指示したりすることだろう。それは明に入っていない。「タバコを吸うと、癌になる確率が急激に上がる」と教えるのは明の一部であるが、「だから、タバコをやめたほうが良い」のは明の範囲外である。結びや産霊から考えれば、言った方が良いかもしれないが、明の理念がこのような行動を求めない。
だが、「浄」が助言と似ている概念になる。