共存共栄

惟神の道では、共存共栄の概念は重要である。それは、「和」の一部でもあると言えよう。人間同士の共存共栄は重要であるのは言うまでもないが、その具体像を別な理念で描くので、この記事で余り触れるつもりはない。

寧ろ、人間と自然界の他の存在との共存共栄を強調したいのである。

神道には歴史的に自然崇拝の要素は強いと言われるが、熊野那智大社の滝を御神体とする神社を考えれば、否めるわけはない。そして、富士山の噴火を鎮めるために浅間神社を建立することもあったようだ。同じように、祈年祭は豊穣を願う祭りで、新嘗祭はその豊穣の感謝を奉る祭りである。

但し、過去の崇拝は、人間は自然の偉大さの前で無力であることを認識することは多かった。それはもう昔の話になった。災害を見るとそう感じないだろうが、日本で洪水が非常に減ってきたし、耐震化された建物が倒れないこともあるし、防災や減災の対策を実現できるようになった。一方、気候変動や絶滅危惧種や海洋プラスチックゴミの問題を考えれば、人間の生活や活動が自然界にとって災害になったと言えるのではないだろうか。自然界にとって人災であるだろうが、自分から発生していない災害であるので、生態系から見れば自然災害の一種だと言えよう。つまり、生態系の観点から、人間は自然災害の一種である。

共存共栄を実現するために、この悪影響を減らさなければならない。共存共栄であるので、人間も繁栄するのは当然だが、自然界の栄も確保しないと、惟神の道から逸脱した。

この共存共栄には個人の活動も関わるが、地域全体も国全体も世界全体もの活躍も必要である。そして、個人で何をしても意味はない問題もあれば、個人で解決できる問題もある。

例えば、気候変動を考えよう。これは、世界規模な対策ではないと解決されない。個人で省エネだの車離れだのしても、全く効果はないのだ。「僅か」ではなく、「全くない」。一人の消費の変更のために化石燃料の生産量が減るか車生産がなくなるかことは無かろう。国レベルで、温室効果ガス排出量の大幅削減するための政策があれば、他の国も技術等を理由して同じ効果を生み出すこともあるので、国規模で動けば、問題は解決できないとはいえ、効果は期待できる。地方自治体のレベルでも、僅かに貢献できるだろう。

一方、近辺の生息する動植物等を活かせる為に、個人としても効果のある行動は取れる。例えば、庭があれば、その庭で小動物が生息するための植物や施設を整備すれば、少なくともそこに棲む小動物の共存共栄に貢献する。

国家の行動を促す為に動くことも考えられるし、直接に個人ができる行動をとることも考えられる。その具体策は環境によって大きく違うが、惟神の道の重要な一部であると主張する。

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