祭祀の検討

神に相当する存在は本当にあれば、分かった方が良いと誰でも思うのではないか。ちょっと失礼だが、病気と例えよう。病気は人類誕生から憑き物だったが、その原因は最初からわかったとは言えない。しかし、分かる価値があることは明らかだったので、医学者が数百年の検討を積み重ねて調べてきた。その結果、最初の仮説と完全に違う状態になっているが、分かる病気はもう過半数になっている。そして、その理解に基づいて過去に奇跡として見なされただろう効果のある治療法も開発してきた。最初の理論は覆されて、夢にも見えなかったことになったが、そのために最初の仮説は必要不可欠だった。それはなかったら、第一歩さえ踏めなかった。

同じように、神の存在を検討するために、出発点の仮説は必要である。出発点にすぎないので、その仮説に執着してはいけない。研究が進むと潔く捨てる必要も生じることはほぼ確実である。

この出発点の仮説として、神道は適切だと私が思ってきた。

まず、存在についての仮説の上に倫理的な構造は立っていない。神道の伝統の中で倫理を構築することはできるし、このブログで実際に取り組んでいるが、その倫理と神の存在は関係しない。だから、神が実は存在しないと判断しても、倫理がなくならないし、芸術としての祭祀も無くならないので、仮説への執着を回避する条件が整っている。

そして、神職の大半は神道の神話をその通り信じないのは事実だろう。少なくとも、神職の養成講座で神話の史実とのズレを指摘することは通常であるし、神職の話で神の存在を強調することは少ない。その上、神の存在に触れる場合、分かっていない恐るべき存在として触れることは多い。

この程度の信仰は、仮説にも適切である。仮説をきちんと検討するために、真剣に考える必要がある。だから、どうでもいい仮説が知識の進歩にあまり貢献できない。もしかしてこれで事実に突き止められるのではないかと思う仮説は必要である。

神道の祭祀等は、千年以上の歴史の中で成長してきた。主に、特定の場所と関連する不思議な存在に対する畏敬を基盤とする。その上、伊勢神道や吉田神道、平田神道等が築かれてきたが、現在その詳細を疑問視することは多い。だから、神道の祭祀や態度に残っているのは、事実と何かの関係を持つことである可能性はある。つまり、戦国時代の混乱や明治維新の襲撃や戦後の落胆を生き抜けた神道には、何か強い芯がないと、なくならなっかた理由は分からない。確かに「ただの偶然である」との説を絶対的に排除できないが、そうするための証拠も足りないと言わざるを得ない。

特に、他の宗教を見れば、国家の擁護を取り消せば、宗教が衰退して無くなることは少なくない。しかし、神道は違う。国民に根強いので、その根強さに理由がある筈だ。

確かに、超自然的な説明は不要であろう。そして、人類学者であれば、そのような説明はないことを前提として検討すべきである。もしかして、自然科学の範囲内で充分な説明を見つけられるだろうが、探さないと見つけられない。しかし、私は人類学者ではない。私は、今の自然科学の中で説明できるかどうかを調べるつもりはない。寧ろ、自然科学の立場から意識の説明は挫折しているし、説明できる兆しさえない。(ここでその確信の根拠を説明できないが、哲学の説明や医学の仮説に詳しい。説明の第一歩にもなっていないのは私の判断である。)説明しなければならないと思っているので、それへの道を探っている。神は脳等と関係しない意識として描写されてきたので、神の存在はその緒になるのではないかとも思える。

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