神道を出発点とするために、どうすれば良いのか。まずは、神の存在を前提とする。それは出発点の仮説であるので、まだ証拠が足りないのは当然である。検討する前に証拠があるわけはないだろう。
それでも、出発点をはっきりさせなければならない。祭祀をなぜ執り行っているか、そしてどういう風に執り行っているかをはっきりする。その説明は、神の存在や質の仮説に明らかに基づいていると良い。なぜかというと、検討が進むと、仮説を当然修正する。仮説の行動との関係をはっきりわからないと、どういう風に修正すべきかは分からない。
つまり、祭祀を神の質に基づく。祭祀の行動の目的もその仮説の中で説明して予想する。結果を評価する方法も先に考えておく。そして、実現すれば、結果が出る。その結果に基づいて仮説を修正して、祭りも修正して、さらに進むのは適切である。
要するに、ある意味で神社は実験室で、神を対象とする実験を行うつもりである。
って、どういうこと?不敬の極まりなのではないか。
寧ろ、これこそは畏敬の表意であると確信する。
神の意志がわかる根拠は足りないことをもう述べた。だから、今神社で行なっている祭祀は実は神に対して痛い行為である可能性は排除できない。痛くはないとしても、神の希望を叶えない可能性もある。医学の歴史を考えれば同じことが見える。500年前の医学は真摯に執り行われていたが、結核の治療はできなかったし、予防接種の概念さえなかった。病気の悪化を招く治療法もあった。同じように祭祀に問題がある可能性は排除できない状態で、そのまま進めるのは勝手で不敬であると言えないのだろうか。
実験の耳障りは良くないだろうが、相手に相応しい行動を探す行為も指す。憧れる人に接するために適切な方法を探ることと変わらない。
ただし、この実験の中で、神の意識を軽視してはいけない。知識の観点から見れば、意識の謎に近づくための行動であるので、神には意識はないと実験はそもそもの実らない。成果は期待できない。
その可能性はある。虚しくなる道を選んだ人は歴史には少なくないが、多くの場合は忘れられている。その事実に覚悟しなければならない。しかし、自分の行動の前提として、自分の行動は無意味であることとするのは馬鹿馬鹿しい。前提は、意味のある道を選んだとしなければならない。
だから、神に意識があることを前提とする。そうすれば、神の意識を考えながら行動しなければならない。道具扱いをしてはいけない。
神の存在や意識を考えながら、目的がある祭祀を描写して、出発点をはっきりする。そして、評価して進展を期待する。