表現の自由と取引

雇用と同じように、取引が表現の自由と重要な関係を持つ。これで、二つの側面がある。

一つは表現の自由と直接に繋がる。それは、書店の出版物の扱いに代表される表現の媒体の扱いだ。原則として、内容に基づいて取引を拒否することを法律で禁じるべきだと思う。本を扱うなら、何の本でも扱うべきである。もちろん、物理的な店舗であれば、実際に店頭に置ける本には限度があるので、それは自由に選ぶ権利も保障しなければならない。しかし、ある人が取り寄せを願ったら、本の内容を理由に拒否することは認めない。

実は、このような法律が小売業の後ろ盾になる。或る人が矛先を書店に向けたら、「なぜこのような本を扱うのか」と攻めたら、「法律上扱わなければならい」と反論できる。その上、ある本を売っているから店長の意見を察することはできると思う人がいなくなるだろう。(まぁ、実はいなくならないが、少なくなるに違いない。)

もちろん、「雑誌しか扱わない」とか「単価が10万円を超えると扱わない」のような内容と明らかに無関係な条件は許される。同じように、「某本卸業者が扱う本しか扱わない」という条件も許される。卸業者にも内容によって差別しない義務があるので、結局制限にならないだろう。

これで、表現の媒体を入手する方法が保障されるので、出版の自由が成立する。

もう一つは、表明した意見に基づいて一般的な取引を拒否する行為だ。

これで、一般の個人と業者をはっきり区別しなければならない。

業者の場合、取引を拒否する権利を認めない。小売店等は明白だ。人が入って、物を買って、出ることは、意見と関係しない。他の取引がもう少し難しくなるが、雇用のように、表現を理由とする拒否は禁じるべきだ。銀行は口座や他のサービスを意見に基づいて拒否することは出来ないようにすべきだし、鉄道会社や航空会社も搭乗を拒否してはいけない。雇用に関する違反と同じように、売り上げの一部を罰金として、業務停止命令も可能とすべきである。基本的人権を侵す行為を軽視すべきではない。

一方、一般の個人は、自由に取引先を選ぶ権利を持つべきだから、意見の内容のため或る店に行かなくなっても法律で制限できない。発信者の立場から言えば、本を出版する権利があるが、本を買ってもらう権利はない。(その権利があったら、私の執筆活動は如何に楽になるだろう。)

しかし、個人の自由は原則であるとしても、発生しうる問題を防がなければならない。

例えば、ある町に美容院があるとしよう。その美容師が町で評判がとても悪い意見を述べる。例えば、同性愛者を批判したか、同性愛者を擁護したか。内容はどちらでも良いが、周りの人と激しい葛藤になる。その結果、来客がいなくなる。その場合、生活が成り立たない。この事態は予測可能であれば、表現の自由の厳しい制限になる。

どうすれば良いのか。強制的に町民を美容院に通わせることはできるまい。だから、町の自治体が肩代わりにして、美容院の売り上げを補填すべきだ。

実際には、美容師がより同感する地域に引っ越す可能性は極めて高いと思う。友人関係を義務付けることは出来ないので、孤立生活になってしまうし、この問題のための代償はない。行政ができることには限度があるが、売り上げの補填はその分である。(これは生活保護ではなく、意見表明の前の売り上げの全額まで補填することだ。町民には避ける権利があるが、意見と賛同できないから人を避ける行為は良くない。この美容師は被害者だから、行政が支援を出すべきだ。)

この対策は極端に思われるだろうが、本当に自由に自分の意見を述べるための環境を整えるために、このような措置は必要だと思う。生業を賭けて発信することは本物の自由であるとは到底言えない。

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