表現の自由と寛容

法律について論じてきたが、法律は問題の本当の解決策ではない。寧ろ、法律は慣習を醸す道具である。その慣習は寛容だ。多様性のある社会には寛容は必要不可欠であるので、行政の方針で推進しなければならない。

寛容というのは、価値観が根本的に違う人の存在と生活を認めたり許したりする態度を示す。評価できない価値観でも、悪質だと判断する価値観でも、その持ち主の存在と生活を許すことだ。

この態度はなければ、多様性が溢れる社会は維持できない。悪質と看做す価値観を潰そうとする人の間の葛藤が煽られて、政治的な紛争まで繰り広げる。場合によって、ある価値観を弾圧して、平穏を取り戻すが、それ代償は多様性の喪失である。最悪な場合、内戦まで展開することもある。

基本的に、この態度は表現の自由以前の問題だ。表現しようかするまいかを問わずに悪質な価値観を攻めたら、多様性な社会は明らかに無理だ。それより、人の良心まで追求して、賛同できない要素を見つけたら追放したり罰したりすることになる。

しかし、表現の自由は寛容の維持に極めて重要であると思う。自分の意見に合わない意見の存在を意識しないと、寛容を育む機会はないので、嫌な意見と接したら、消滅したくなるのは自然であろう。それで多様性のある社会が危ぶまれる。表現の自由が保護されたら、自分が到底賛同できない意見を聞く機会が多くなる。天皇制を廃止すべきという意見とか、女性が家事や育児に専念すべきという意見とか、キリスト教に従うべきという意見などをよく聞いたら、適切に対応する技能を身につける。

その技能の基本は、同じ社会でその人と生活を共にすることだ。場合によって、意見の隔たりが問題にならない分野で協働することもある。友人関係を持つことも可能になる。自分の生活の妨げになる意見を持つ人と友人関係を持つのは難しいと思われるだろうが、実際に妨げない限り、それは可能である。政治を話さないのような無言鉄則を設けることもあろう。もちろん、共有する趣味や活動は必要である。共通点はない人と友人関係を結ぶことはそもそもないだろう。しかし、寛容があれば、共通点を重視して、相違点をなるべく問題としない。

このような態度が一般的になったら、本当の意味で多様性が満ちる社会が生まれるだろう。多様な意見や生活方式が同じ社会で共存することで、お互いに磨いたり学んだりすることで全ての意見や生活方式が改善されるとも思える。だが、一番重要なのは、社会の主流と違う価値観を持つ人が自分を偽らずに生活を送ることができる事実だ。

行政がその最低限を保障したら、国民の態度が寛容に向けると私が思うが、そうではなくても、国家の保障で少なくとも最低限が確保される。

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