多様な才能

社会的な地位は、主に自分の才能の発揮で確保する。その才能で、周りの社会に貢献して、その貢献を認めてもらうことで社会的な地位を作り上げる。

人の才能は多様である。体が丈夫な人もいれば、理解が早い人もいるし、美貌で優れる人もいる。優秀な親を持つことも、才能の一種として認められるだろう。歴史のある家柄は長く才能として認められたし。この才能は同じ人に集中することはあまりない。頭が良くて、運動神経は優秀で美貌な摂関家の末裔の方は非常に少ない。(断じて言える。)

だから、社会が認める才能の多様性を保障しなければならない。そうしないと、社会的な地位を確保できない人が多くなり、安心が広がらない。

才能自体は、本人が何もせずに親から受けることだ。美貌もそうだし、頭の良さもそうだ。実は、忍耐力や集中力も同じである。家柄もそうだから、頭の良さを認めれば、家柄を認めない理由はない。つまり、第一段階は全ての才能を認めることだ。家柄を発揮することを軽視してはいけない。同じように、美貌を発揮することも尊重しなければならない。

もちろん、才能を持つことだけで認めてもらえるはずはない。その才能を発揮することは重要である。社会で、その発揮する機会を設けるべきであるが、それは社会の役割だと思う。

現在社会を見たら、頭脳の才能を発揮する機会は溢れているようだ。頭脳の才能は抜群ではなくても、大学を卒業して意味のある仕事に就職できる。しかし、他の才能はそうではない。体力は、プロ野球等に入るための抜群の才能ではない限り、尊重してもらう道は少ないようだ。力仕事のほとんどは機械に行われるか、軽蔑される。同じように、美貌を発揮する道はタレントでなければ、配偶者狩りや風俗ぐらい。それは尊重される道にはなっていない。実は日本で、家柄を発揮する人が尊重されるようだ。政治家から神主まで、尊重される生業に就くことができるようだ。この状況を批判するわけない。(それでも、家柄に頼る政治家は多すぎるように見えるが。)

適切な機会を提供するのは国家だけではなく、民間の企業等にもなるが、模範を見せるべきだろう。国家が見せなければ、市民が見せたら良かろう。

やり直す機会と共に、多様な才能を認める社会に安心する人は多くなると確信する。自分の才能が分からなくても、探る余裕がある。最初に試した道で失敗しても、別な道と挑戦できる。流れに乗りながら複数の腕を試すこともできる。そして、多様な才能が認められたら、自分には尊重してもらえる才能はない確率が下がる。

それでも、ゼロにならないだろう。その場合、どうすれば良い?

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