裸の脆弱

混浴の積極的な利益は、裸の脆弱と関連する。

裸で見られたら、恥ずかしくて、精神的な被害を受けることは多い。肉体的な被害とつながる場合もある。例えば、入浴中の地震から逃げ遅れて、下敷きになることもあるだろう。命を助けるために恥ずかしさに我慢するだろうと思われるかもしれないが、人間がその様に考えないと言われる。まず恥ずかしさに対応してから、身を守る。

しかし、裸で見られることで必然的に被害を受ける必要はない。物理的に問題はないのは明白である。見られるために、光が肌から反射する必要があるが、一人で入浴するときにも光が肌から反射する。精神的な被害も必然的ではない。生活環境の文化によって決まっている。

それを理解するために、現在の日本人の女性は、髪の毛が見られても、恥を感じない。しかし、現在のアラブ諸国の女性は、髪の毛が公然に露出されたら、大変恥ずかしく思うそうだ。歴史を見たら、同じ様なことがわかる。1000年前のヨーロッパの女性は、髪の毛を隠したが、顔を公然に露わにした。日本の女性は逆だった。髪の毛が見られてもそれほど差し支えなかったが、顔をひたすら隠していた。(『源氏物語』から推測すれば。)

このような文化の掟が主に女性の脆弱性を増す。男性は、裸で見られたら恥ずかしいことがあるが、それほどではないのは普通だし、男性の「裸」の露出度は女性の「裸」の露出度をかなり上回ることは多い。つまり、男女差別の一環でもある。

ある露出が恥ずかしくならないため、日常的に露出する必要がある。特別なことであれば、特別な感情が付くからである。完全な裸体を考えれば、通常性がさらに必要となる。19世紀の西洋人は、日本の女性の露出された裸を普通のこととして考えられなかったので、その態度が女性に伝わって、恥を産ませた。最近、混浴温泉で猥褻な行為が問題になった報道もあるが、それも普通ではないからである。水着で男女が見える温水プールで特にその問題にならない様だが、それは水着が普通になっているからなのではないだろうか。

一方、いつも裸で過ごせるわけではない。日本の冬は寒すぎるし、夏の日差しは肌にきついし、裸ならポケットなどはないので、不便は多い。文化的に裸が恥ずかしくなくなっても、服装をやめないほうがいい。

で、いつ裸になるかが課題となる。温泉や銭湯に入る時が自然な回答なのではないか。今でも、同性同士でそうするし、服を着ながら入浴することは不自然だ。混浴の銭湯等であれば、異性に見られることも恥ずかしくなくなる。

つまり、混浴が一般的になったら、不要な脆弱性がなくなるし、特に女性の自由度が増す。

要するに、混浴の普及で、トランズジェンダーの方の人権が保護されるし、日本の文化が擁護されるし、それに特に女性の脆弱性が減る。強制的に混浴に入浴させる話ではないので、損害の側面は見られない。導入への抵抗感があれば、その根元を見つめ直すべきだろう。

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