日本のような集団社会にはどのような利点、どのような魅力があるのか。西洋から日本を見たら、「アリのように個性を否定して集団のために自分を犠牲としながら働く」の罵ることがあった。個人を重視する文化から理解できないことを見て、強く批判してきた。私も、イギリスでの生まれ育ちなので、同じような反応を感じる。しかし、それはただの偏見である可能性もある。長年続いてきた社会構成には利点があるに違いない。欠点ばかりだったら、高度経済成長をもたらしたことはないし、すぐに崩壊するはずだろう。もちろん、欠点もあるのも当然だが、西洋からあまり見られない利点に焦点を当てたい。そうするため、まず考えている構造を具体的に描写しなければならない。実際の日本社会には多種多様な集団があったし現在もあるので、全てを簡単に考えることはできない。
まず、集団がある。(会社や行政の省庁等の組織を想定したら良い。)人は、若いうちにこの集団に入団する。そして、定年まで同じ集団の中で働く。いわゆる終身雇用だ。個人の役割は集団に与えられる。集団の中の階級があるが、これは先輩・後輩の関係のように、勤務年数によって決められる。頂点に定年直前の人が必ず就く。
集団の成果の名誉等は集団に付与される。集団を構成する個人はただ役割を果たしたということになる。給与も、年数で決められる。個人の努力と直接的に関係しない。そして、集団の構造の中の役割と実際に果たす役割が必ずしも一致するとは限らない。特に、才能がある人が組織図で最下位であるとしても、事実上の監督になることもあり得る。その場合、上司の名誉を保護しなければならない。自分の貢献を主張してはいけない。
集団の方針は、集団全体で決める。提案が持ち回りで全員の同意を得てから実現される。多くの場合、前例に従う。(真新しい行動に全員の同意を得るのは難しいからだ。)
日本の戦後の社会には、根強い男尊女卑もあったが、その要素を除外する。それは明白な欠点で、考える価値はない。仮に男女の役割を明確に区別したら良いとしても、尊敬と軽蔑と結びつけるべきではない。その上、男女の役割がはっきり区別されているとは思わないので、ここで考察しない。
このような社会構造では、個人の自由は明らかに制限されているし、個人の重要度も抑制されている。個人の自由は、入団する集団を選択する時点にしか現れない。だから、このような構造が社会の全体を占める状態は良くないと思わざるを得ない。しかし、社会の一部として存在したら、どの利点があるのか、考えたいのだ。個人主義と能力主義をこれほど否定する構造は、評価できるのか。
これからの投稿で、その利点を取り上げて、利点の内容を示してから、利点を得るために必要な集団の要素を考える。これで、設けるべき法政も見えてくるだろう。