休暇の機会

人間の人生の中で、仕事を休むべき事態が自然に生じる。すぐに思い浮かぶのは病気だろうが、育児や介護もそうだ。家族の養育を仕事より優先する場合はある。しかし、休めば仕事を失う状態であれば、安心して休めないので休まずに両立しようとして、結局双方で失敗することは少なくないだろう。または、日本の伝統的な形で、男性が子供の養育を完全に手放して、女性は職場から離れることになってしまう。これはいずれも良くない結末だ。

しかし、事実の問題もある。私のような個人営業の場合、1週間程度休むことができるが、育児休暇等の長期的な休暇を取れば、仕事が完全になくなって、ゼロから立て直すことになってしまう。同じように、集団の中で役割ははっきり区別されて、一人しか担えない仕事は多ければ、そのような人が休めば、もう崩壊するか、後継者を雇うかという選択肢になる。休暇の後の復帰を想定して職業を空いたままにすることはできない。このような場合、安心して休めることはできない。だから、この問題を避けるために集団を講じるべきだ。

まずは、集団の中の役割ははっきりされていない、お互いに持ちつ持たれつする構成だからこそ育児休暇や治療のための休暇を提供できるようになる。役割ははっきりされていなかったら、責任もはっきりされていない。集団の行為の責任は、集団が負う。負わせる法的な措置は必要だが、集団の中でも個人に対して責任を追求しては行けない。この構造で「責任者」が休むことがあり得なくなる。同じ概念に沿って、専門職もなくなる。集団の中で働く人は、集団の役割のいずれも担える構造は必要だ。

これでもう現在社会で無理なのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。休暇を可能とするために、十数人規模の集団は十分だろう。数十人であれば、確実だ。そのため、大きな集団の中で、小さな集団に責任や専門を与えても良い。貿易会社なら、ある部がある国を担当することはあり得る。その部で働く人が現地の言語を取得したり、習慣に自分を慣れさせたりする。そして、その国との貿易は、その部が責任を負う。しかし、30人程度の職員であれば、数人が休んでも機能できるはずだ。

このように休養や育児が可能となれば、少子化対策にも過労死対策にもなる。育児休暇は当然女性と男性に平等に取らせる方針を導入すべきだが、女性が出産直後の休暇になるだろう。介護も同じ概念になる。

この状態は個人にとって魅力があるのは明らかだが、集団にとっての魅力はどうだろう。集団にとっても、部の働きは安定してくる魅力がある。人間は病む生き物だから、休暇を許せない構造であればいつも不安定だ。個人の責任として責める集団もあるが、それは倫理的に認めてはいけない。集団には問題を回避する構造を構築する責任があるので、それに怠ったら、発生する問題は個人のせいにはならない。

休暇を可能とするために、持ちつ持たれつする構造が必要になると述べたが、それで集団社会の最大の利点が生まれる。それは機会の平等への貢献だ。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報