連帯感

集団社会を築こうとすれば、集団が重要になるのは当然だ。それが個人にとっていいことになる条件の一つは、集団の中の連帯感なのではないか。仲間と一緒に活動していると感じたら、心強いし、生き甲斐も感じるだろう。先に描写した集団の構造で、連帯感が発生するとも思える。

なぜかというと、同僚との競争は基本的にないからだ。職場恋愛紛争があるかもしれないが、仕事上、別な集団と競争するとしても、同僚と競争しない。待遇や収入は成績に基づかないからである。待遇等は単純に入団から経った時間に基づいて計算されるので、同僚との関係を変えることはできない。自分がさらに早く入団したように状況を変更することは絶対に無理だから、上下関係や収入の多少の関係は変わるはずはない。

一方、現状が変わらない絶望や同僚の地位に至れない羨望も発生することはあまりないだろう。ただ待てば、自分もそのような収入や肩書きを得るはずだ。待ち望むことはあるかもしれないが、待ちながら働いて、連帯感を感じるのではないかと私は思う。

このように競争する理由はないが、一方協力する理由はある。まずは、協力すれば、快適な職場を作り上げることができる。これは外部との関係から影響を受けない。協力的な職場は働きやすいのはその職場の本質だ。もちろん、協力を促す具体策を取るべきだが、集団の構造上、その導入に抵抗する理由はない。

その上、同僚の協力で集団の業績を上げることもある。それを実現できれば、全員の収入を上げる可能性もある。これは必ず叶うとは言えないが、いつでも希望を持つことができる。だから、協力に拍車をかける。

上記の二つのことは職員が一人でできることでもないし、一人で利益を占めることもできない。つまり、集団に入ればこそ得られる利益だ。

もちろん、人間は喧嘩する生き物だから、このような構造でも職場が必ずしも穏やかな環境になるとは限らない。しかし、構造的な紛争の原因を取り除けば、喧嘩の頻度を抑えることができるだろう。そして、人間は協力する生き物でもある。実は、協力する傾向の方が遥かに強い。(社会を見たら、これは明らかだ。人間の接触の大半は協力的だからこそ軋轢になる場合は覚えやすい。)

このような環境を確保して維持するために、職員を経歴の長さ以外のことで区別してはいけない。そうすると、紛争の種を撒いてしまう。このような集団で、実力を認めるのは危険な行為になる。認めたら、職員が当然アピールするようになる。その場合、同僚同士の競争になる。多くの肩書きは、入団した人が必ずいつか得ることができる構造が良い。もちろん、「社長」は一人しかいないので、一部に限るが、社長の選出方法も工夫しなければならない。それは、後日に論じたいと思う。

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