外国の行動に関与する根拠を考えれば、大別して外政と内政の根拠がある。つまり、他国への影響と自国民への影響が問題になり得る。根拠を論じる前提は、抗議することはいつでも許されることだ。しかし、外交の制限や制裁、又は軍事的な関与は原則として禁じられる立場だ。原則を覆して関与する条件を考えなければならない。
外政の場合、まずは複数の国の存在を認めるのは前提だ。国の一部が一方的に独立宣言を出しても、問題が外政の問題になるとは限らない。同じように、相手国がある地区を自分の領土の一部であると主張するからと言って必ずしも内政の問題になるとは限らない。国連の判断をどう配慮すべきかは論じるべき点であるが、曖昧な場合はあっても明白な場合は大半である。
具体的な外政問題を考えれば、簡単に判断できる場合もある。他国の侵略はいつも関与の根拠に値する。関与するかどうかはその状況によって決めるべきだが、理由になるのは明らかだ。これは、ロシアのウクライナへの軍事侵攻とシリアの内戦の大きな違いだ。人道被害としてシリアの方が深刻であるかもしれないが、明白に国内の戦乱であるので関与の根拠は明白ではない。
侵略以外の圧力や威嚇が関与の根拠になり得るとも思う。言葉での批判は関与する根拠にならないことを反対側の明白な極点とする。批判と侵略の間に、意図的に他国に加害する場合と、損害を与えているがその損害を目指していない場合を大別すべきだ。
意図的な損害は、ある程度の関与の根拠になるのではないかと思われる。その関与は当然与えた損害に相当すべきだし、正当な理由があって損害を与えていると判断する場合、もちろん関与しない。とはいえ、正当な加害であると判断して関与すれば、悪質な国にさらに損害を与えるためだろう。問題は、圧力を与えている国の判断に賛同できない場合でも、圧力を認めるべき場合があるかどうかということだ。
一方、圧力を与えるべき場合に圧力を課さない国に対するどうするかという問題もある。
意図的ではないかがいはさらに厄介になる。温室効果ガスの排出は他国への損害になるが、その損害を与えるために排出しているわけではない。それでも、損害の事実は否めない。その場合、どうすべきなのか?
外政の問題点は多いだ、内政の問題もある。ナチスドイツのユダヤ人の大虐殺は内政だったが、軍事的な侵略の根拠になり得たことは否めないだろう。だから、他国に影響を及ぼさなくても関与してもいい場合、いや、関与すべき場合があると言えよう。しかし、判断が外政の場合よりさらに難しくなる。
まず、ここも大別できる。一つは、国家が国民に弾圧や加害を与える場合だ。もう一つは、国家が国民同士の弾圧や加害を許す場合だ。
前者は原則として関与の根拠になるのではないかと思われるだろうが、例えば同性同士の性行為を厳しく取り締まることは弾圧に値するのだろうか。そうであれば、未成年との性行為を取り締まるのはどうだろう。私たちが許すべきと思うことを許さない国に対するの態度を考えなければならない。
国民同士の弾圧等を許しても国家レベルでの関与に値しないと思うのは当然だろう。しかし、奴隷制を認める国はどうするのか。奴隷制とは言えないが、労働条件は事実上奴隷制に近い場合はどうか。
理念に沿って、多様な国や政治体制を認めることを目指したら、本当に厄介な問題は多いのである。すぐに答えられないが、何らかの糸口を探りたい。