神社の祭祀の主役は神の為の祭りであれば、神の存在を前提としているのは明らかだろう。存在していない神の為に祭りを執り行う意味はないと言わざるを得ない。
確かにその通りである。最初に、神の存在を前提として論じると断っておいた。しかし、これでただの小説の為の架空な祭祀の話をするつもりはない。家庭祭祀と違って、私は実現できる環境に置かれていないが、実現される為の枠組みを提供するつもりだ。だから、神の存在についてはっきり考えた方が良いのではないかと思われるだろう。
ただ、これが難しい問題になる。
先ず、記紀神話をそのまま信じることはできない。日本列島は、伊邪那美神が産んだ存在ではない。邇邇芸命が高天原から降臨したわけではない。神武天皇が2600年以上前に大和朝廷を設立したこともない。神功皇后の新羅への遠征は歴史になかった。これを信じるために、他の証拠を覆さなければならないが、ただ1300年前の書物に書いてあることにはそれほど力はない。
そして、神についての伝説のほとんども、そのまま鵜呑みすることもできない。仮に神が存在するとしても、毎日見逃せない太陽の本質が全くわからなかった人間が見えない神の本質を突き止めたとは思えない。
神が存在するとしても、神についての信じられてきた詳細の大半は間違っているのはほぼ確実である。人間の事績を見ると、それは明らかである。日本人は仮に正確だったとしたら、インド人やヨーロッパ人が間違えた。日本人を特別扱いする理由はない。自分は日本人であるとしても、それはこの場合に関係しない。
それでも、完全に否定することはできない。科学の進歩で日本列島の本当に誕生がわかったし、伊邪那美神と関係しないが、まだわからないことは多い。根本的なことも含まれている。基礎物理学の主な理論の相対論と量子力学が矛盾する。何か根本的な誤りが含まれているのが分かっているが、どう解決するかはまだ分かっていない。そして、人間の意識がどこから発生するかも分かっていない。脳と関係あるのは明らかであるが、その関係は完全に不明のまま。
その状態の下、何かの見えない存在についての話が世界各地で見えることを考えれば、何かの事実が後ろにあることを認めるべきなのではないか。これで、自分の宗教に飛躍する人は多いが、そうしていけない。神道の神話をそのまま信じる根拠にはならない。
それで祭祀の基盤になることに至らないと思われるだろう。何らかの存在の可能性は薄く感じる。確かにそう感じるが、実際にそうとは限らないと私は思う。神話が信じられないとしても、神道の伝統に基づく祭祀を執り行う理由がある。