占いの裏

占いの結果には模様があれば、それは神の意思の表現であると定義してきた。しかし、本当にそうであるのだろう。何か別な存在が邪魔をしている可能性にも配慮しなければならないのではないか。

驚くことに、そうではない。何故なら、現時点で神の本質が全く分からないからである。そのため、神社で執り行われた神事に関与する存在で、目で見えない存在で、そして超自然的に関与する存在は、神であると定義できる。神道では、神の質について決まっていないので、事実はなんであっても、神であると言える。

具体例を考えよう。

先ず、実は人間の潜在的な超自然能力が占いを動かす仮説がある。その場合、人間が神になる。神道で、神になる人間は少なくない。乃木神社の乃木希典大将や二宮神社の二宮尊徳公は顕著な例であろう。生存な人間が神になる例は少ないが、歴史に存在する。確かに、神道に変更を齎すが、神が自分の中で潜むと言う教義は神道の歴史で散見される。そして、死んだ人間が神になれば、ほぼ主流の神道になる。

そして、人間と関係しない存在で、力をそれほど持たない何かである可能性もある。神道では、神が万能であると強調しないので、力に限界があっても神に該当する場合もある。確かに神の力は小さければ、神道の実践を考え直さなければならないが、尊厳は力の報いではないので、本格的に変わらないだろう。祈願祭が重荷にならないように制限するかもしれない。

また、殆どの神社には神はいないことも発見されるだろう。それで、やはり神道に変更がもたらされるが、神が存在する。八百万の神は正確な数字ではないので、少ないことが分かっても、神ではないとは言えない。

逆に、一つの存在は全ての神社で現れることが判明されたら、神道の実践が変わるが、神の呼称を使っても構わないだろう。

神以外の精霊が占いで託宣することは最初から排除できる。その理由は「神」と「その他の精霊」を区別できないことである。つまり、精霊の概念に該当する存在は、神の概念にも該当する。確かに、記紀神話から得た神のイメージと違う神を発見する可能性はあるが、それはまだ神である。

一番問題になり得る可能性は、占いの答えの裏には意識は全くない可能性である。つまり、模様が出るが、その模様は機械的に生み出される仕組みがある場合である。これは事実であったら、確かに「神」であるとは言い難いのだ。ただし、人間には意識があるか、または機械的に行動するかという問題は、哲学で良く取り上げられている。自分の場合、意識があることが確かであるが、他人の場合意識するかどうかをどう判断するかは、簡単な問題ではない。神の場合は尚更だ。つまり、これは事実であるとしても、意識について知識をかなり深めない限り、判断できない。そして、意識の理論を改善するために、意識がある仮説に基づいて研究を遂行するのは良い。要するに、この結果があるとしても、心配しなくても良い。この事実を明らかにする過程で、世界の事実を深く理解するので、明らかになる前に先取りできない。

つまり、占いに答えられる存在の殆どを神と呼べる。その例外を判明するために、神であることを仮説して研究しなければならない。だから、占いに何が答えているかは、この段階で気にしなくても良い。

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