誰でも参拝できるのは神社の公の資格の基本条件であるともう述べた。そして、境内での行動を制限することもできる。勿論、許すこともできるし、限定的に許すこともできる。例えば、境内で飲食を禁じることも許されるし、カフェを設けて、そのカフェでの飲食を許しながら、他のところで禁じる方針も妥当だろう。このような規則は、神を拝む施設として保護するために定めるのは適切であると認めよう。
問題になるのは、拝み方自体である。もちろん、私的な施設であれば、拝み方を制限することは自由である。そして、法律上神社は私的な施設であるので、制限を課すことはできるのは明らかである。問題は、どのような制限で公的な資格を失うのか、という悩ましい問題である。
先ずは、拝むことを人格的に制限すれば、公的な資格を即座失う。そのため、宗像大社の沖ノ島は公的な施設ではない。女性の参拝は禁じられているし、一般参拝も禁じるようになった。私的な拝礼施設になっている。辺宮にはそのような制限はないので、公的な施設である可能性がある。
一方、他の参拝者の拝礼の妨げとなる行為を禁じることはできるのも明らかである。数十人が社頭を独占して数時間居座れば、他の参拝者の拝礼の支障となるので、退かしても公的な資格の立場から差し支えないだろう。危険な行動は尚更だ。
では、その間はどうだろう。服装を制限しようとする神社は少なくないが、果たしてそれでいいのだろう。服装が他の参拝者の妨げにはならない。(極端な例を除けば。例えば、服装が燃えている場合は違う。)水着で参拝しようとしても、他の参拝者の妨げにならない。作法も考えなければならない。神社の基本は二拝二拍手一拝だが、四四二をする人を排除したら良いだろう。
これで、一歩より基本な立場に後退したいと思う。「公」の神を拝む施設は、原則として誰でも自分の気持ちに沿って神が拝める施設であるのではないか。所有者が勝手に制限を課すと、公的な資格が少なくとも薄めるように感じざるを得ない。国家が司る施設であれば、もう少し曖昧になるが、神社はそうではないので、はっきり言えるのではないだろうか。公的な資格を得るために、公開するしかない。
そう考えれば、拝み方を制限してはいけない。服装も作法も供物も自由にするしかない。勿論、標準を公表することはできるが、標準を満たさない人を拒むことは公的な質に逆らう。
ここで、穢れの問題が思い浮かぶだろう。自由にさせれば、穢れた人も参拝するのではないかと思われる。その可能性は確かにある。しかし、拒めば、公的な資格を失うことは変わらない。どちらを優先するかと決めなければならない。妥協案として、昇殿参拝に御祓を強制するが、社頭でのお参りには気にしないことは可能である。神様の反応は自由だが、今の時点、神様に確認することはできないし、神様も、公的な神社を維持するために、誰でも受け入れなければならない。
このような手法では、神社自体は公的な施設であるが、その中の社殿は私的な施設になる。境内で自由に拝礼できるが、拝殿で服装や作法の基準を尊重しなければならない、ということです。勿論、他の人の参拝を妨げる行為を禁じることはできるし、違法行為を告発できるが、境内からの拝礼の形を自由にしないと、公の資格はないと言えるのではないか。