公と国家

この投稿で、ちょっと神社の祭祀から離れて、公と国家との関係について論じたいと思う。神社本庁等の発表を読めば、密接な関係があるかのように見える。そして、一般的な使い方にも同じような要素が見える。例えば、「公立学校」は行政によって維持される学校を指す。如何に開かれているとしても、民間の学校法人は公立ではない。しかし、ここでも、公立学校の大半は市町村立、または県立である。国立学校は存在するが、極めて少ないようだ。

神社の場合、明治時代から終戦までの「国家の宗祀」の概念が大きく働いているのではないかと思われる。神社の祭祀は国と天皇のためであり、個人のためではないからこそ公的な施設であるのような印象が強い。

公と国家をこう考えれば、台湾には公は一切ない。天皇はないのは当然だが、世界的に国家として認められていない。だから、国家のために働く人は一人もいない。(勿論、勝手に国家であることを宣言することを許せば、「国家」の概念には意味はない。私が個人的に私の家を独立国家に宣言のみにできるので、「国家」の実質的な意味がなくなる。同じように、私が個人的に台湾が国家の基準を満たしていると判断しても、公的な意味はない。)同じように、北朝鮮は国家だが、その高官の行動は公的であるかどうかは疑わしいのではないか。

これを考えれば、「公」をより根本的に定義したくなる。(私は、骨髄から哲学者だが。)そう考えれば、前述のような概念になるのではないか。つまり、「公」は無差別に人に提供されていることであると思ってくる。「公園」は誰でも入れる園である。公立学校は、近所に住めば誰でも入れる学校である。確かに、学区の制限があるが、全国が満遍なく学区によって網羅されているので、学校制度は公的になっている。学校ごとに考えるべきではないだろう。

しかし、こう考えれば、国家は公ではない。在留資格や国籍に拘って、提供する措置が受けられる人を制限する。このような制限は、公の本質に違反する。これは確かに問題になる。国家は公ではなければ、「公」の使い方が変わったと言うしかないだろう。これが難しい問題になるし、「政治理念」のカテゴリーにもなるので、ここで割愛する。

ここで、国家の公の資格には問題があること認めたら、「国家のため」が公の資格にはならないことは明白だろう。つまり、神社の公的な資格は、一般的な提供から得ない限り、私的な施設であると認めなければならない。神社は特定な場所に鎮座するので、その場所に来る人を差別なく受け入れたら、公の資格を得ると思われる。

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