公と神

神社は、神を拝む施設である。

神社は、公な施設である。

この間に、矛盾が発生するのではないかと思わないか。つまり、神は公的な存在ではない。神は官僚ではない。官僚は神ではないと言われたら、日本の社会体制への批判に聞こえるかもしれないが、逆であればごく当たり前の常識である。この矛盾が明治時代に誕生したのではないかと思う。

神社は国家の宗祀であると強調する明治政府は、神社の祭祀は宗教ではないとも強調した。宗教ではなければ、神を拝む行為でもないだろう。宗教ではない神の拝礼は有り得ない。宗教の定義は確かに曖昧ではあるが、神を拝む行為がその定義に入らなければ、問題は定義にある。神を拝む行為は宗教行為であるに違いない。そして、明治政府が神社の祭祀を統一化して、国家の道義を推薦するようにした。

しかし、神社は神が鎮座する場所で、神を拝むための施設として考えれば、神のことに配慮しなければならない。神を無視しながら神を拝むことは考えられないからである。

ここで、神の存否の問題がまた発生する。神が実存していなければ、拝むことはそもそもできない。ただの伝統儀式に止まる。伝統儀式にも価値があるが、その価値は違うし、地域の伝統を極端に尊重して、生かすべきである。その場合、明治の祭祀改革を巻き戻すべきであるとも言える。

別なところで論じたが、神には意思はあるかどうかは不明である。ある証拠は薄いが、長い伝統があるので、すぐに否定すべきではない。特に、意識の本質がわからない現状で断言して否定する根拠もない。

仮に神が存在するとして、更に仮に神に意識があるとすれば、原則として拝み方は神の好みに沿うべきではないか。拍手が嫌い神であれば、参拝作法の基本を見直さなければならない。参拝のために露出が少ない服装を要求するが、もしかしてある神の好みは違うかもしれない。雅楽より三味線が好きな神様、雅楽よりJ-POPが好きな神様もいるだろう。神道関係の漫画でそのような神様がよく出るが、神様に意識があり、好みがあれば、本当にそうなると考えなければならない。

神社は神のための施設であれば、持つことはできる公的な質は、開かれた参拝環境である。神様の好みがわかったら、拝み方を制限すること当然できる。「この方法で神様が怒るので、避けてください。これは大好物であるので、高いけどできればおすすめである。平凡な参拝であれば、このような作法や供物で好まれている」ということになるが、その内容は神社によって違うはずだ。そして、神様に政治的なご意見があるかもしれない。共産党を擁護する神様が存在することも有りえる。確かに共産党が無神論を掲げるが、それは西洋の無神論であり、神道の神様と全く関係はない。

こう書けば、確かに変な感触だろう。だけど、それで重要なことが明らかになる。神社のことを考える場合、普通に神様には少なくとも意識はないことを暗黙前提とすることである。明治以来、神道が本当に世俗的になった証拠なのではないか。

公の立場から見れば、神は公ではないので、神を拝む施設には非公的な要素があるはずだ。単純に公的であると主張すれば、神を否定している。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

チャート 出意人

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報