公の基本

神社本庁が神社の公的な性質をよく強調する。しかし、具体的にはどういう意味だろう。公立である意味ではない。確かに、神社本庁が戦前の協調を継承しているし、戦前の神社は文字通り公的な施設だったが、現在では別な意味で語彙を使っているはずだ。ここで、神社本庁の役員の頭の中を読もうとしない。寧ろ、自分なりに神社の公を考えていく。

出発点として、「公」自体を考えなければならない。公が国家の管轄を指すという使い方もあるが、それだけではない。公と私の対から考えた方が良かろう。

私物は勝手に使っても良いものである。公物は違う。誰でも使っても良いが、その使い方には制限がある。公道であれば、誰でも通ることはできるが、道に祭りを開くことはできない。一方、私道であれば、通ってもいい人を制限することはできるし、所有者であれば祭りでも良いのだ。

これを基本としたい。公的な施設でも、用途を制限することはできるが、利用者を制限することはできない。利用者を制限すれば、もう公的な施設ではない。この定義で、宮中三殿は公的な施設ではない。参拝できる人は厳しく制限されているからだ。この観点から見れば、皇室祭祀を皇室の私事と見なすのは適切である。私的な施設で特定な人が行うので、私的な質は強い。

しかし、一般的な神社は公的な施設である可能性は高い。参拝する人は原則として制限されていないからだ。行為には制限があるが、それは許される。

ただし、ここで重要な問題が発生する。公的な施設の用途を制限すれば、誰が制限するのだろう。公道の場合、法律で定まるが、神社はそうではない。国家の管轄から離れたことで私的な施設になったと言いたくなければ、公的な施設の利用を制限する権利をより広く認めなければならない。

現在の法制を考えれば、施設の所有者にこの権利を認めるのは当然である。所有者が施設を公的な施設から私的な施設に変えても、抗議できないだろう。そう言っても、公的な施設として持ちたかったら、自由に扱うわけにはいかない。その公的な資格を保たなければならない。つまり、誰でも施設を施設の目的のために利用できる状況を保つのだ。

神社の場合、その目的は神を拝むことであるに違いないだろう。神社を解放として、参拝を拒まない状態であれば、この条件を満たす。だから、神社の大半が公的な施設になる。一つの宗教法人に所有されていることにも拘らず、公的な施設である。

それで、境内で宴会を開く人を追放することはできる。神社の目的は参拝であるし、宴会は参拝ではないので、公道の塞がる行為と同じように禁じても公的な資格を失わない。だが、公道を自由に制限できるはずもない。参拝方法の制限はさらに難しい問題になる。このような問題をさらに論じなければならない。

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