日本国憲法第21条では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定められている。これは、行政の義務となっている。つまり、政府は表現の自由を保障しなければならない。私は賛同するが、具体的に何をする義務になるのだろう。
まず最初に、行政が表現を制限してはいけない。法律である種の表現を禁じたり抑制したりしてはならない。実は、これで問題が発生する。暴言や中傷で人が損害を被るので、物理的な暴力と同じように抑制しなければならないとも言えるだろう。今回、この問題を割愛したいと思う。別な問題に焦点を当てたいからである。
そして、日本では、この基本の基本はまだ完全に果たされていない。猥褻な表現には制限が存在している。この制限を撤廃すべきだと私が思うが、重要な問題ではないとも思っている。なぜかというと、その制限は限定的で、性器を詳しく描くことを禁じる程度であるようだからである。これは確かに表現の制限だが、猥褻な本を出版したい場合でも、イライラさせる要素になるのは確かだが、表現したい内容は表現できないことは少ないと思われる。だから、撤廃すべきだが、急務ではないし、力を注ぐつもりはない。(これは、もしかして、自分に疎い問題を軽視する傾向の現れかもしれないが。)
ここで考えたい問題は、民間からの圧力だ。
日本国憲法の文言は、国家が表現に関与してはいけないことではなく、表現の自由を保障すべき内容だ。これで、他の国と違う。もちろん、実際の意味は裁判の解釈によって異なるが、憲法の文面も重要である。確かに、私が知っている限り、日本の裁判でも法律や行政の関与が主な論点になってきたが、文言のより広い解釈をここで掲げたいと思う。
簡単に言えば、或ることを言うと解雇されたり、買い物の取引さえできなくなったりしたら、そのことを言うことはできない。懲役罰を受けると同じぐらいの結末になるので、表現が事実上制限される。同じように、本を出版しても、全ての本屋が軒並み取り扱わないこととしたら、行政の検閲はなくても、事実上出版の自由は持っていない。
最近のアメリカで所謂「キャンセルカルチャー」があり、ある意見を表明したことで解雇された人も実際に存在している。書く時点でつい最近の出来事だが、SNS各社がアメリカ大統領の発言を禁じた。その発信の内容を私も強く問題視したが、民間会社にはこれほどの権力があることも問題視する。社会一般がある意見に社会的な罰を科そうとしたら、行政の行為と同じぐらい表現の自由を制限する。いや、行政の行為より厳しい。社会の弾圧は、裁判で自分の潔白を訴える機会さえ与えられないし、罪と罰の均衡を保障する措置も持たない。
私の立場は、人の意見が如何に不人気であっても、人の表現は如何に不適切であっても、社会的な罰は原則として批判に限るべきということだ。反論することも言論の自由の一種だから、禁じるわけにはいかないが、民間会社でも個人でも、批判以上の罰を与えることは許すべきではない。これこそは寛容であると主張したいのである。
もちろん、詳細には問題がある。一つは「批判」と「中傷」の違いだが、この問題を割愛する。これから論じるのは、言葉以外の行動である。