カテゴリー惟神の道

性的な作品と商売

美術的な作品には性的な要素が入っていることは少なくない。油絵で裸体の名画が多いが、それで性的な要素になっている。それ自体は問題にならないことはもう述べている。 しかし、商売になると、問題がある。それは性的な誘惑から発生する問題である。例えば、有名な美人女優がある映画でヌードシーンをすることが明らかになったら、そのヌードを見るために映画を見に行く人は少なくないだろう。建前を別な理由とすることは多いが、本音はそうなのではないか。写真集の基本もそうである。...

共存共栄

惟神の道では、共存共栄の概念は重要である。それは、「和」の一部でもあると言えよう。人間同士の共存共栄は重要であるのは言うまでもないが、その具体像を別な理念で描くので、この記事で余り触れるつもりはない。 寧ろ、人間と自然界の他の存在との共存共栄を強調したいのである。 神道には歴史的に自然崇拝の要素は強いと言われるが、熊野那智大社の滝を御神体とする神社を考えれば、否めるわけはない。そして、富士山の噴火を鎮めるために浅間神社を建立することもあったようだ。同じように、祈年祭は豊穣を願う祭りで、新嘗祭はその豊穣の感謝を奉る祭りである。...

神楽の位置

天宇受売神といえば、やはり神楽は重要である。だから、宇受女塾から神楽を削除してはいけないだろう。同じように、神楽で天宇受売神が裸になって踊ったことも見逃すわけにはいかない。これは、一体どのように考慮すべきなのだろうか。 まず言えるのは、天宇受売神の神楽は激しかったようであるので、運動になり得る。運動は人間に取って重要であるので、神事の要素を無視しても価値がある。そして、宇受女塾であれば、神事を盛り込むのは相応しいので、神事での神楽を一部とするのは良かろう。 では、裸になることはどうだろう。提案すれば抵抗感を感じる女性は多かろう。 だが、だからこそ提案したいと思う。...

社会性と自主性

天宇受売神の行動の特徴の一つは、自分の利益のためにあまり動かないことだ。確かに、天照大神が天岩戸から出たら、天宇受売神も恵まれたが、その恩恵は全ての神と共有した。同じように、猿田彦神と話した時、自分の旅のためではなく、邇邇芸命の旅のためだった。その上、天宇受売神が勝手に動かずに、他の神と話し合って、その結果に従って動いた。 しかし、ただ命令に従って動いたと思ったら、大きく違う。自分でそのやり方を決めたことは大変重要である。社会はある役割を担ってもらう必要があったので、相談の中で天宇受売神がそれを担うことにした。それから、遂行するための方法を自分で考えて、独特な方法で成功に至った。 人間の宇受女が成功に至らないこともあるが、それは自信の問題である。失敗しても良いことを念頭に置けばそれでも積極的に進める。真似することは、社会が認める役割を担い、自主的に成し遂げることである。...

交渉能力

天宇受売神の神話で顕著であるのは、交渉能力だろう。天照大神を天岩戸から誘い出したし、猿田彦神も納得させただけではなく、夫として入手した。だから、宇受女塾で交渉術も教えなければならない。コツはもちろんあるが、ここで基本態度についてちょっと論じたいと思う。 交渉で、競争と違って、自分の希望も相手の希望もできるだけ満たすようにする。そうするために、何が必要なのだろう。...

自信の基盤

宇受女塾の基盤は自信だろう。勇敢も強情も自信から生えない限り、本物とは言えない。それに、自信には複数の要素があると言えるのではないか。 一つは自分の基礎価値を認めることである。人間尊厳を自分の場合でも実感する必要がある。自分の意見を持ったり発信したり立場にそもそもあることを実感しないと、天宇受売神のように堂々と行動できるはずはない。具体的に、このような自信で、相手が何かを行ったからと言って、必ず従うわけではない。参考とするのは望ましいが、結局自分で判断すべきである。そして、同意できない場合、それを言う権利があることを確信することである。場合によって言わない方が得策であることもあるが、反対意見を表明する自体は悪質になることはないと信じるのは重要である。...

天宇受売神を模範として

先日、『神社新報』である神社が「ウズメ塾」を開いて、女性の塾生の「女子力」を鍛えたことを読んだ。偶然、ほぼ同時に英語での神道紹介のため天岩戸神話をもう一度『古事記』、『日本書紀』『古語拾遺』で読み返した。その「ウズメ塾」で茶の湯などを紹介したようだが、神話で描かれた天宇受売神の性格と行動と結構違っていた。 一番有名なのは、岩戸の前で踊る場合、天宇受売神が胸を晒して踊ることであろう。下の服も開けた、ほぼ裸で踊ると言う。そして、天孫降臨の途中で猿田彦神に交渉する場合も、胸を晒すと言う。これは確かに「女子力」と言えるが、神社で使われた意味と相当違うだろう。...

浄:浄明正直

「浄」というのは、清浄で汚れのない状態を表す。惟神の道の理念として、穢れを避けることも表現できるだろうが、ここで「正」「直」「明」と関連する意味で捉えたいと思う。 「浄」の理念は、自分の人生を模範とすることである。 もう少し具体的に説明する。自分の人生の全てが相手に正しく把握されたら、その人がその人生を模範としても、自分で違和感を感じないことである。つまり、自分の人生の中で自分が批判的に思う要素はない状態を表す。これは明らかに達成できない理念であろうが、目的として適切であるのではないか。そして、「浄」の字との関係も明らかなのではないか。自分の人生や活動には自分にとって汚れとして認める点は一切ない状態を指しているので、清浄な人生を指すとも言える。...

明:浄明正直

「明」が明るくて光ることを連想させるだろう。惟神の道の理念として、「正」で得た知識を提供する行動を指す。いつでもどこでもお説教すると言う意味ではないのは言うまでもないと祈って已まないが、積極的な意味も含まれている。 それでも、消極的な意味を忘れてはならない。消極的な意味は、事実と異なることを信じさせない理念である。周りの人に嘘を信じさせることは「明」の理念に背く。もちろん、堂々と嘘をつくのは「明」から遠く離れている。しかし、言葉は正しいけれども、文脈などから間違った意見に誘導することがわかったら、言い方を変えるべきである。同じように、沈黙で間違えさせる行動もよくない。自分の誤りで他人に不確かな情報を伝えることも、「明」に違反する。確かに、自分で真摯に信じれば、相手に伝えるのは判断として批判できない行動だが、本当に間違っていれば、「明」に違反する。「明」を保つために、「正」に励むしかない。...

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