カテゴリー政治理念

非関与の原則

外国の内政に関与しないことを原則とすべきだと思う。中国政府がこの理念を都合の良い時に強調するが、だからと言って間違っているとは限らない。だが、その理由は国の主権を尊重するからなどではない。...

外交の理念

外交には信念を持つのは重要であると多くの人が述べる。ただ国益を追求して、相手国の悪質な行為を黙認してはいけないと強調する。悪質な国を黙認するのは良くないことは明白に感じるが、実はこれは極めて難しい問題である。 まずは、「悪質な国」はどう言う意味でしょうか。刑法の違いで国が犯罪を認めるのは良くないと思ったら、大きな問題が発生する。アメリカで拳銃が憲法に保障された権利であることは周知の通りだが、日本に持ち込もうとしたら、違法になるし、アメリカ社会に悪影響を与えているのは明白だ。それだけではない。アメリカで治療薬として処方箋で入手した薬を日本に持ち込もうとしたら、覚醒剤所持として検挙されることもある。一方、日本で買った中学生向けの漫画をアメリカに持ち込もうとしたら、下手に選べば児童ポルノの密輸で逮捕されることも。(未成年者の裸が描写されたら、そうなる可能性がある。)...

三次元の倫理

正義に基づいて明白な行動の基準を得られなければ、どうすれば良いのだろう。行動をその瞬間の勘によって決めても、基準を設けたので、基準なしにはできない。そして、基準は何にしても、間違える恐れがある。それはどうせ正義には限られない問題である。その瞬間の勘でも、間違えることはある。 その解決策として、三つの基準を同時に利用する案を掲げる。 その基準は自由、慈愛、持続である。併せて、三次元の倫理と名付けよう。 自由は、すべての人が自分の行動や人生を自分で決める状況を指す。人の行動を拘束せず、制限せず、抑制せず振る舞って、幅広い選択肢から選べさせるように努める方針である。 慈愛は、人の幸福を願って、実現しようとする行動を指す。 持続は、永遠の将来までこのような行動や社会が続けるように今現在の行動を慎む方針だ。...

疑う正義

ユダヤ人を虐殺するのが正義に適わないことは、今になって誰も疑わないだろう。しかし、そう思った人はナチスドイツに限らず、ヨーロッパの歴史には多数いた。中世や近世に、ユダヤ人が(1000年以上前に)キリストを殺したので、当時のユダヤ人を殺したり弾圧したりすることは正義だと主張した人は少なくなかった。その上、出鱈目な中傷に基づいて、反ユダヤ意識を煽った。それは悪極まりないだった。 私たちはそののような誤りを犯していないと確信するだろう。 だが、なぜ確信できるのか。...

誤った正義

正義の指導が間違った方向に導く理由としてすぐに思い浮かぶのは、正義を見誤った状態だろう。つまり、正義であると思う理念は実は正義ではない状況だ。 些細な場合もある。例えば、ボランティア活動で社会に貢献することは正義に適うのを正しく判明したとしよう。そして、現実的な選択肢は災害の被災地での活動と近所の貧困の子供の支援活動だとしよう。いずれも貢献できるし、社会にいい影響を与えます。しかし、正義に適うために、子供支援をすべきだ。それでも、考えた上で、誤って被災地での活動を選ぶ。 確かに正義を見誤ったが、このような問題について心配すべきではない。人間はこのように間違えることもあるのは決まっている。このような誤りを悪徳の行為として批判する立場もあるが、正義の概念でこのような誤りが問題になったら、それは概念の問題であると私は思う。...

正義の魅力

正義を求める人は多い。正義を憧れる人も多い。正義の味方になりたい人も多いだろう。しかし、私は正義の魅力は幻であると思う。 そう思う理由を説明する前に、正義の魅力を具体的に描かなければならない。 この問題は難しくないと感じる人は少なくなかろう。言葉の漢字で明白であると思われるだろう。「正」と「義」だから、魅力的だろう、と。しかし、このような答えで物足りない。なぜ「正」と「義」に魅力があるのかという質問が残るし、まだ答えを待っているように感じる。「美」も同じだ。確かに美は魅力的ではなかったら、美ではないが、その魅力はどこにあるかという質問が残る。...

美しくない国

「美しい国」を目指すのは保守派だけではない。多様性が溢れる美しい国は革新派の目標としても掲げられることがある。しかし、私は賛成できない。美しくない国を目指すべきだ。 誤解されると思うので、前置きに断るが、わざと美しいものを壊したりする意味ではない。そして、「美しくない」は重要な基準にもならない。ただ、事実上美しくない国を目指すべきだ。 美しい存在は、美意識に基づいて形成されたり評価されたりするものだ。ゼロから創造する場合もあるし、自然に美しくなった部分を保存して、醜くなった部分を排除する場合もあるが、根幹は同じだ。自分の生活で美しい環境を確保するのはいいことだと思うが、国家の方針として根本的に間違っていると言わざるを得ない。...

機会を奪わず

失敗をやり直す機会を提供するのは重要だが、失敗する機会も重要だ。 つまり、流れがあるとしても、流れに戻る機会や方法は多いとしても、それで安心を確保したとは言えない。この投稿の塊で、主に失敗への対応を扱うが、その焦点に危険が伴う。それは、「安心」と決め付けた流れを押し付ける危険である。流れから自由に逸脱する機会も確保しなければならない。 これで一番重要なのは、時間の制限だろう。人間には限られた時間があるので、その時間を奪ったら、返すことはできない。もちろん、ある計画を実現しようとするために費用も必要であることは多いが、安心を確保する措置が財産を奪うことは少ないだろう。一方、現行の制度を見れば、時間を制限することはある。...

才能のない人

才能は全くない人は少ないだろう。それでも、皆無ではない。そして、持っている才能は全て弱い方である人も加えたら、到底無視できない割合に上るだろう。このような人も、社会に認めてもらって、自主的に安心した地位で意味ある人生を送る権利を持っている。 だけど、その権利を保障することは容易ではない。才能はない人は、自己管理力、忍耐力、集中力等の才能も持たない。理解力ももちろん劣る。そのような人は「継続は力なり」と言われても、継続できない。(継続力しか持たない人のために社会的な道を開くことは比較的に簡単である。)失敗したり誤ったりすることも多い。...

多様な才能

社会的な地位は、主に自分の才能の発揮で確保する。その才能で、周りの社会に貢献して、その貢献を認めてもらうことで社会的な地位を作り上げる。 人の才能は多様である。体が丈夫な人もいれば、理解が早い人もいるし、美貌で優れる人もいる。優秀な親を持つことも、才能の一種として認められるだろう。歴史のある家柄は長く才能として認められたし。この才能は同じ人に集中することはあまりない。頭が良くて、運動神経は優秀で美貌な摂関家の末裔の方は非常に少ない。(断じて言える。) だから、社会が認める才能の多様性を保障しなければならない。そうしないと、社会的な地位を確保できない人が多くなり、安心が広がらない。...

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