惟神の道の行方

惟神の道とは、ここで神道的な生き方を指すために使う表現である。祭祀への参加はもちろん含まれているが、主に倫理的な概念を指している。つまり、どういう風に生きるべきかという質問を、神道の枠組みの中で答える計画である。

現代の神道では、この問題を取り扱うことは非常に少ない。「健全な育成」などの曖昧な表現が使われるが、具体的な内容を掲げることはあまり目に当たらない。場合によって、会津藩の白虎隊が「健全な育成」の例として挙げられ、「健全な育成」が無意味な自殺を招くかのように書かれるが、私はその方向に行かない。だから、神道の概念の中で、自分の倫理観を活かして、惟神の道を開きたいのだ。

始まる前に、ある問題と取り上げたい。それは、倫理的な考察は神道に相応しくないかという疑いである。神道は「言挙げせず」という伝統を持つから、倫理などについて何も言わないのは適切である、と。その上、神道は、基本的に人間と神様の接し方に関心を持つ伝統だから、神様に向かわない時、神道は何も言わなくても良いとも言えるだろう。つまり、日常生活について触れないし、倫理を掲げない、ということである。

実際に神道にはこの要素もあると私も思う。私が掲げる倫理に従わない人は神社に参るべきではないとはもちろん言わない。人生はなんであっても、作法に従う限り、神様に向き合うことはできる。神様の態度は神様の次第だが、接して奉るのは、日常的な行動と関係しないと強調したいのである。神職は「あのような人は、神社に入るべきではない」と言うべからず、態度も忌むべきだ。神職は仲執り持ちであり、神様の代わりに判断する審判ではない。作法を指導するのは適切であるが、お参りを断ることは神職の失格だと私は思う。

それでも、倫理に触れてはいけないとも言えないのではないだろうか。神道には理念がある。産霊、祓、和、浄明正直、絆、慎、伝統などの理念はよく掲げられる。この理念を持って、意味のある、神道に根付いた生活を構築できるのではないかと私は思う。

言うまでもないかもしれないが、念の為断りたいことがある。この倫理観は、神道の必然的な倫理観ではないのだ。これは私が、一人の神道人として発想した倫理観になる。神道と関係を持たない倫理観もあり得るし、神道の中でも他の倫理観も可能である。実は、『神社新報』を読めば、これから掲げる倫理観と大きく異なる倫理観が潜在的に存在する印象を受ける。国家を重視して、武力を最高の地位に置いて、敵との戦いを称賛する倫理観である。神道的な倫理観として否定するつもりはないが、私の倫理観から見れば決して良くないのだ。

この倫理論の想定される対象者は、私である。自分のために構築するつもりである。他の人が読んで、共鳴して、受け容れたくなったら、大歓迎だが、それを前提としない。布教の目的を持っていない。

では、惟神の道はどうなるのだろう。

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