意志の実現

意志の尊厳というのは、心の中でなんでも目指しても良いという意味に留まらない。実世界に実現する権利も含まれている。実現させなければ、意志を本当に尊重しているかと問われるが、原則として意志を尊重するために実現を許すべきであると述べたいのである。

国家の役割から見れば、これは重要な概念である。先ず、歴史的に謳われてきた自由はとても重要である。国家がある思想を、又はある宗教を禁じたら、意志の尊厳を深刻に侵す。このような自由は確保されていなければ、意志の尊厳を表現することはできない。

しかし、これだけでは足りない。最初に、国家だけではなく、他の住民や民間組織によっての制限を払拭すべきである。この概念はもう法律に見える。例えば、殺人禁止法は、私人によって他人の意志を断絶することを禁じる。私の考えは、この範囲をまだ狭いということである。多くの人の自由と活動範囲に厳しい制限は許されているが、そうすべきではない。

そして、物理的な可能性もある。例えば、重い病気を患った人は、多くのことはできない。教育を受けていない人も、多くのことはできない。その上、例えば月に旅したい人は、それはできない。このような事実上の制限は、意志の尊厳の妨げになる。志したいとしても、現実的に見たら不可能な目的を已まざるを得ない。このような問題は国家の問題ではないと思われてきたが、そうではないと私は思う。国家は、なるべく広範囲の可能性を提供する社会を育むべきである。

一方、誰でも、何でも、欲しくなったら即座入手できる状態は論理上無理だろう。明らかな例は五輪の金メダル。金メダルが欲しい人に配ったら、意味を失くす。金メダルではなくなる。ただの飾り物に過ぎない。意味のある金メダルを取得するために、競技で勝たなければならない。理由は違うが、技能も人間関係も同じようなことである。練習しないと、技能は身に付かない。一方、有意義な人間関係は、時間が経つとともに成長する。だから、保証できるのは、目的への達成ではない。

その代わりに、誰も、いつでも、何の目的に向けても、動き出せる環境を目指す。その動き出しで、目的に近づける環境も築く。例えば、五輪の金メダルを目指せば、ある項目の訓練を始めることはできる。訓練の成果は五輪の金メダルになるかどうかは分からないが、金メダルを目指して訓練することは可能とする。他の技能も同じである。弁護士になりたい人には、法律を学ぶことを可能とする。その学習が弁護士のレベルまで至るかどうかは、本人次第であるが、道は開かれていることを国家が保障する。人間関係も、連絡を取ったり、築こうとする行動を許す。

住民の意志を尊重するために、国家の義務的な活動の範囲は意外と広い。それでも、問題がある。まず、住民同士の意志が齟齬することは必ずある。殺人を禁じる必要性は顕著で極端な例だが、たくさんある。その上、無限な力を持たない国家は、何を可能とするかを決定しなければならない。前にも触れたが、月に旅することはできない。国家が莫大な予算を注入したら、可能にできる。だが、そうすべきかどうかは、すぐに答えられない。

この政治理念で論じる内容は概ねこの問題である。住民の意志の齟齬をどう扱うか、具体的に何を今すぐ可能とするか、という問題である。

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