参政権

国家の行政は、どの形を取るべきなのだろう。住民の意志を尊重する善意の独裁者でも良かろうか。

そうは思えない。国民の政治参加は必要不可欠である。

先ず、理念自体を考えれば、国民の意志を政治決定から排除することはそもそもおかしい。意志を尊重するのに、無視する。如何なものか。

基盤として、民主主義を導入しなければならない。民主主義の有効な役割は、国民の信頼を失った政権を無血で排除することだと私は思う。自分の一票で立候補した人の一人に投票することだけで、国民の意見を行政に届けられるとは思えないし、将来の道を選ぶために鈍すぎる手段でもある。しかし、もう信頼できない政権を平和的に倒すために、最適な方法だろう。この民主主義は最終的な審判であると言えよう。政権の日常的な活動に細かく影響を与えないが、政権が国民の意志から大きく逸脱すれば、政権交代を強制的にさせられる。

しかし、これだけは足りない。先ず、歴史を振り返れば、重要な事実がある。ドイツで、ナチスが選挙に勝ったことである。民主主義の結果はいつも正しいとは言えない。極端に間違える場合もある。あったから、否定できない。これで憲法は必要不可欠である。憲法の役割は、政権の活動を制限することだ。さらに、国民によって選ばれた活動を制限する役割もある。もちろん、憲法も最終的に国民の判断によって決めなければならないが、憲法改正を難しくするべきである。憲法で、住民の自由と可能性を保障して、政権の裁量を制限する。憲法改正には時間も大多数も必要とすれば、短期的なブームによって改悪される可能性をなるべく抑えられると思う。

立憲民主主義があれば、大きく前進したのではないか。ただ、まだまだ不十分である。理由にはもう触れた。憲法は一般的な権力の制限しか指定しないので、国民の意志を細かく反映することには適していない。選挙は具体的な選択肢に関わるが、その選択肢は鈍い。

鈍いというのは、例えば教育無償化を称える候補者しか出馬しない選挙であれば、それに反対する住民はどうやって反対するのか。棄権する選択肢があるが、棄権すれば選挙への影響を放棄する。その上、政権公約で挙げたことを必ず実現するかといえば、そうではない。するとしても、そのやり方には詳細があるが、その詳細は政権公約に記述できるわけはない。紙幅の関係で省くしかない。一つの問題についてこのような現実があるが、選挙にはたくさんの課題が掲げられる。課題によって賛成できる候補者や政党が異なる場合、どう投票すれば良いのか。

投票しても、日本では一票の影響力は殆ど無い。総人口は1億2千万人程度である。その中の一票は、すずめの涙。

だから、より細かい参政権を確保する必要があると思われる。例えば、川崎市で20年前から活躍してきた外国人市民代表者会議のような制度は良いだろう。この会議で、課題ごとに具体的な問題描写と解決策提案を用意することはできるし、行政に提供することもできる。このような制度を拡大すれば、住民の参政権を実に活かすことはできるのでは無いかと思う。

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