倫理と誘惑

誘惑を考えれば、一般的に「倫理問題」と言われることを扱う。実は、欧米では、「倫理」は性的なことを指すことさえあった。「善良な女性」という表現は、ただ単に処女、又は夫以外な男性と性的な行為をしたことはない女性を指した。倫理は、誘惑に対抗するイメージは強い。

ある意味で、それは当然である。倫理の役割は、長期的に行動の指導を提供することである。方針としてどう行動すべきかは、倫理の基本的な課題である。そして、誘惑は、その場で長期的な方針を乱す感情である。だから、倫理で誘惑を乗り越える技を描写するのは良い。

ただ、二つの問題が発生したと私は感じざるを得ない。

一つは、倫理で誘惑を克服する必要性を繰り返して強調するが、具体的な手法を提供しない傾向は強い。極端な例は「ダメなことはダメ」という倫理的な強調である。確かに反例のダメではないダメなことを挙げることはできないが、助言として全く役に立たない。

もう一つは、誘惑を完全に回避すべきであると主張して、そして誘惑の回避以外のことにあまり触れないl傾向は強い。つまり、倫理には規制が主役になることは多い。

特に自然の誘惑の場合、例えば賭博と性の場合、その結果は「倫理はやりたいことを禁じる邪魔な存在に過ぎない」との抵抗感を沸かす。それで、悪徳は魅力であると言われるようになる。その理由がわかるだろう。善良な行動は必ず自分の意欲を抑制することであるとしたら、悪質な行動をしない限りやりたいことは一切できない。やりたいことは魅力的であるのは言葉の意味で保障されている。特に性的な行為を一切しないことを善良としたら、悪徳な人が好きになるのは当然。

これは根本的な間違いであると私は思う。

善良は産霊と結びであると主張している。産霊は全ての存在の成長や新しい存在の誕生を指すので、自分の発展も友達の発展も含まれている。結びは、他の人を重視することであるので、結びがあれば、他の人の発展も願う。そして、結びの中で性的な行為が重要な役割を担う。賭博の楽しみを要求すれば、産霊等に貢献する種類を探ることは推薦される。麻薬には生物学的な悪影響があるので、悪影響なしに同じような楽しい結果がある方法を探ったり開発したりすることが推薦される。(運動は、麻薬と似ている効果があるという研究もあるので、現実の話である。)善良な行動は、全面的に良質な行動であるが、それは必ず誘惑になる行動を除外することではない。

倫理は、やりたいことから好ましくない要素を除外する方法を教える学であると述べたいのだ。難しい場合もあるのは当然だが、一般的に欲望を満たすし、倫理を勉強する前の欲望を完全に変貌させない。性的な行為をしたければ、倫理で後悔せずに性的な行為ができる方法を教える。麻薬の舞い上がりが感じたければ、倫理で後悔せずに感じる方法を教える。そして、まだ気づいていないが、味わえば深く楽しむ経験も紹介する教えである。倫理から見れば、誘惑はそれほど重要ではあるまい。

1 コメント

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  • 倫理観は大事だろうけど、目的の達成のためには毒を以て毒を制すと云われる通り、悪事に手を染めなければならない場合もある。例えば新薬の開発のためにモルモットで実験し、命を落とす場合である。

    此れで多くの人命が救われる見返りとして、犠牲となった多くの小動物がいる。
    気違いな動物愛好家は非難の声を挙げるだろう。だが、難病から救われる者が大勢いる。
    つまり、論理の‘基準’によって善にも悪にもなるのである。

    ipsもそうである。
    研究者は大いなる使命を以て研究に打ち込むも、倫理的に問題であるから研究が中断された例は枚挙に暇がない。
    論理は難しい問題だと思う。

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