日本の民俗学では、ハレとケが区別される。ケは日常を、ハレは非日常を表す。私が見た限り、普段そのままカタカナで表記されているので、もしかして元々の漢字は常用漢字ではないか、意味が時間とともに移ろいできたかと思う。神道や祭祀についての文脈で出会うと、ハレが祭祀を指すことは殆どである。つまり、祭祀は非日常であることは通説であるようだ。
私もそう思う。では、なぜだろうか。
神様実在想定から考えれば、すぐに説明できる。祭祀で神様にいつもより近づくので、特別な場面であることは決まっている。
神様の存在について疑問を抱えても、説明するのは難しくない。祭祀には、心理的な効果が求められている。特に、家庭祭祀について述べた記事で、自分の長期の目的などを思い出させてもらうとか、人生の良いところを見直すことなどが指摘された。このような効果を得るために、日常の悩みなどから一歩外れるのは良いのである。日常の波に呑まれた状態で、はっきり考えることはできない。
神社の場合は尚更だろう。神聖性を感じるために、ハレの気持ちは重要だろう。これで、日常的な商売を神社から排除すべき理由を理解できるだろう。そのような商売は明らかなケになるので、ハレの気持ちが醸成しない。神職や巫女の装束も同じような影響があるだろう。
このようにハレの気分を目指すとしたら、具体的にどのような気持ちを狙うのだろう。「非日常」は幅広いので、そのままで目標がボヤける。
まずは、祭祀に専念する態度は重要だろう。その上、祭祀はただの娯楽でもない、ただの催し物でもない気分である。映画館に行けば、映画を見ることに専念するつもりであることは多いが、それとは神社のハレが違うべきだろう。祭祀の意味を感じる必要がある。
但し、これで更に詳しく言うことが困難となる。なぜかと言うと、祭祀によってその目的がかなり違うからである。厳粛に執り行われる祭祀もあるが、神賑わいと言われる祭祀もある。どちらも日常から逸脱するので、ハレであると言えるが、そのハレの質は大きく異なることは明白だ。
つまり、神社で参拝者を日常の考えから離して、祭祀に没頭させるのは良いが、その方法は祭祀の目的などによって異なる。日常と違う状態は原則として良いとは言えるが、その違いが祭祀に貢献しないとダメである。その上、祭祀に集中できるような環境を整えるのは良かろう。こう考えれば、誰でも気軽に参加できる雰囲気と矛盾する。日常から離れると、参加にちょっと躊躇するのは当然だろう。これも、祭祀毎に考えるべきであると私は思う。