公と管理権

神社を管理する必要がある。物理的な掃除を手配することから、財産の利用や処分までの世俗的な側面も、祭祀の形式等の宗教的な側面もそうである。現代の日本では、世俗的な側面では宗教法人法が大きく関わるが、現行の法制とあるべき姿が乖離することは少なくないので、宗教法人法を論理の基準とすべきではない。勿論、宗教法人である神社で、同法を実際の管理の基準とすべきではあるが。

問題は、この管理権は誰が持つのか。

純粋な解答は、御祭神が持つということだ。しかし、別途で述べたが、現在の神道でその答えを排除するのは常識になっている。神様の存在さえは疑わしいし、忖度さえできない。(忖度しようとする宮司は更迭される可能性もある。)

御祭神ではなければ、誰?神社本庁等が言いたい答えは「国家」であるような気がするが、そうではない。国家がその管理を放置したことを明記しているし、方針を変えようともしない。過去には確かにそうだったが、それは理想だったかどうかを問うこともできるし、現在そうではない。実践的に別な答えは必要である。

では、宮司だろう。法律上、宮司と責任役員にはこの権利は認められている。包括法人が存在するとしても、その関与を拒んで離脱する権利は法律に保障されているので、最終的に考えれば宮司の判断に任される。

しかし、これで神社本庁が懸念を示す問題は本当にある。宮司の恣意的な利用は許すべきではないだろう。神社の公の性質には問題があるとしても、ある意味で単純な私有物ではないのも明白なのではないか。宮司と責任役員が神社たる宗教法人を解散して、その財産を私有物とすれば、法律上の問題にはならないが、どう見てもすべきではない行為である。日常的な運営権は宮司等に認められると思われるが、最終的な存続を決める権利はそう簡単に譲るまい。

宮司ではなければ、神社本庁だろう。しかし、ここで同じ問題が発生する。実は、問題がさらに深刻になると私は思う。神社本庁はただの民間宗教法人であるし、個別の神社の伝統等と深い関係を持っていない。解散まで至らないとしても、伝統を損なう行為を行う恐れがある。だから、神社本庁に現場の宮司の意見を尊重する必要があると言えよう。実際に、そうすることは多いが、神社本庁の決断の通りに通そうとする場合もあるし、離脱と繋がることもある。

それでは、管理はどこに帰属するのだろう。「伝統」は権利の主体になりうる存在ではない。

これはすぐに答えられない問題である。この投稿で、問題提供の段階で止まらせていただく。

2 コメント

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  • 法律論抜きに氏子の共同所有物、その地域の民草の所有物と云える。
    崇敬の念を集めなければその価値は目減りし、只のモノと化してしまう。
    広く拝戴されているという自覚があれば宮司はぞんざいに扱おうとしないだろうし、後世にまで連綿と受け継ごうと法律上の権利を行使するだろう。
    近くの神社も市の文化財として整備されているし、行政も法の範囲内で大事にしょうとしてる。
    つまり、市民の意思が反映されていると見做せる。

    腕立て伏せ百回完遂。

    • コメントをありがとうございます。そして、百回おめでとうございます。

      神社界が「氏子の共同所有物」論に対して疑義を持っているようです。特に、近隣の人が境内に共同体のための施設を立てようとしたら、どうすべきかという問題であるようです。その施設が神社の尊厳とそぐわない場合、差し止めようとする意思があると思います。だからこそこのような問題は難しいのです。

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