公と政治の関係は重要である。ある意味で、政治は公の真髄である。つまり、公なことが全ての人に影響を与えるので、万民で諮るべきである。万民で諮ることこそは政治である。政治理論そのものである。
しかし、公の問題について特定の意見を持ち上げることは公ではない。それは私的な立場からの主張である。多様な主張を促すことは公であるとも言えるが、主張自体は公ではない。特に、個人や民間組織の主張は社会の中の一つの立場に過ぎないので、主張することは公な行為ではない。
実は、国家の主張さえ公になるかどうかは疑わしい。国家が国体や国柄について具体的に主張したり、促進したりすることは、国家の公に逆らう行為であると論じる哲学者は少なくない。勿論、反論する人も存在するので、結論はまだ決まっていないが、国家の主張はそれで必然的に公的になるとは限らないし、常識であるとも言えないし、当たり前でもない。
民間の主張は尚更である。私的な立場から主張することは許されるだけではなく、国民の義務の一つであるとも言えよう。しかし、そう主張すれば、公的な立場から離れる。だからこそ公務員の政治活動は法律で厳しく制限されている。言論の自由や表現の自由は勿論基本であるが、公的な立場とそぐわないので、公務員が公務員として政治活動しないように気をつけなければならない。確かに、国会議員等の公務員は例外的に除外されているが、それは弁理士の仕事の内容から必然的である。
神社は国会議員のような存在ではない。そのため、神社が政治的な特定な主張をすれば、公的な資格を失う。憲法改正もそうであるし、国旗掲揚促進もそうであるし、領土問題もそうだ。「心ある国民であれば賛成する」と思われることでも、主張すれば公的ではない。心があるかどうかは、良心の自由に基づいて国家さえ公的に判断できないからだ。民間の宗教法人にはその資格は決してない。
だからと言って神社で政治的な行為を避けるべきだとは限らない。政治的な主張を表明することは社会活動の重要な一部であるので、神社にも許される。しかし、公的な行為ではないので、神社がそうしようとすれば、私的な民間法人であることを前面に出して潔く認めるべきである。一方、公的な資格を重視すれば、政治的な内容をできる限り排除すべきである。これは二者択一の問題である。公的な施設になるために複数の条件があるが、その一つは政治活動を避けることである。
江戸時代前期と大正時代の即位式の歴史を立体模型で学ぶ「奉祝記念特別展」が、柏市光ケ丘の麗澤大キャンパス内の廣池千九郎記念館で開かれている。天皇陛下のご即位を祝い、即位礼の意義を考えてもらうのが目的。同大にあるモラロジー研究所が、宮内庁や京都の祭礼衣装業者などの協力で企画した。
特別展では、記録が詳細に残る江戸前期の東山(ひがしやま)天皇(1675~1710年)の即位礼(貞享4年)を4分の1サイズの模型を使い、当時の様子を立体的に再現している。衣装や設備には中国の影響があるとみられるが、天皇が即位を宣言する「高御座(たかみくら)」は現在と同じ場所となる中央に設置されている。
会場の中央には、伝統回帰を重視した大正天皇の即位式が紹介され、即位礼の内容を定めた明治42年の「登極令(とうきょくれい)」に基づき、大正4年に京都御所で行われた式典で、製作された10分の1の模型を展示している。
御所南庭の左右に「左近の桜」と「右近の橘」、周囲には日本風の「纛旛(とうばん)」が立ち並び、紫宸殿の内部からは「高御座」と皇后の「御帳台(みちょうだい)」が見え、このときに用いられた「旛(ばん)」は高さ540センチ、幅90センチの実物大で再現した。
復古にとどまらないのが大正の即位式。江戸時代までの即位式の長所も生かされて、日本的な伝統美と調和しているとされる。伝統と近代文明を融合したこの式典は、昭和3年の昭和天皇の即位礼に引き継がれている。
また、衣装の紹介では天皇が用いる「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」などを展示。女性の衣装では平成2年の即位礼正殿の儀で、参列した海外の代表が、絵のように美しいと絶賛した「十二単(じゅうにひとえ)」が紹介されている。
「奉祝記念特別展」は6月9日まで。午前10時~午後4時。5月20、27日、6月1、2日は休館。問い合わせはモラロジー研究所(04・7173・3111)。(江田隆一)
https://www.moralogy.jp/wp-content/uploads/2019/05/Houshuku_kinenVer_190502_A4.pdf