神宮と伝統

では、神宮の古から連綿に続いてきた伝統が国民の特別崇拝の根拠になるのだろう。

伝統が存在することは事実である。さらに、日本の歴史と文化に深く根付いていることも明白である。神宮の伝統は素晴らしいし、大事にすべきである。

しかし、それだけで足りない。素晴らしい伝統を持つ神社は他にもある。遷宮の伝統といえば、春日大社も1200年以上の歴史を持つ遷宮の伝統を守っているし、春日大社で途絶えた期間もないそうだ。出雲大社も古から存在してきたし、独特の祭祀等を維持してきたし、天照大神との関係も深い。(出雲大社の神職の出雲国造家は天照大神の子孫であると神話が述べる。)大神神社は神宮より長い歴史を持つし(神話を信じれば)、重要な原始祭祀の様子を保つ。宗像大社も「海の正倉院」を持つし、歴史が始まる前からの伝統を持つ。諏訪大社も鹿島神宮も香取神宮も太古から伝統を守っている。神宮を特筆する根拠は明白ではない。

特に、神宮の伝統に空白や大きな変更がある。戦国時代に遷宮等が途絶えたし、神殿の形式も変遷してきた。そして、明治維新で神宮の祭祀の形式は根本的に改変された。他の神社でも同じような現象が見えるが、神宮の伝統への忠実は特筆できない。

崇敬を集める規模から考えても、他の候補が思い浮かぶ。石清水八幡宮は皇室の崇敬をいただいたし、今でもそれが続く。中世には、石清水八幡宮は「第二の皇廟」と言われるほど神宮と肩を並んだ。熊野三山の崇敬も格別で、「蟻の熊野参り」ほど大勢がお参りした。熊野三山の歴史も古に遡る。金刀比羅宮も重要だったし、愛媛県の大山祇神社が全国の武将の信仰を集めた。富士本宮浅間大社自体はそれほど重要ではないかもしれないが、富士山信仰は日本の歴史と文化の中で大変重要である。実は、富士山はその信仰の現場として世界文化遺産となっているので、世界の立場から見れば、伝統が基準となったら富士山の信仰を神社神道の基軸とすべきなのではないか。

実は、伝統と文化を基準とすれば、富士山が優勢だろう。日本の中でも、海外でも、富士山を日本の象徴として認めない人はいないだろう。自然と言えば、富士山と桜だろう。浅間神社のご祭神は木花咲耶姫で、桜の女神であるので、両方が揃っている。そして、富士山を信仰対象とする歴史は長いし、和歌等で富士山を讃える歴史も和歌の歴史と同じである。

同じように神宮を擁護する論議を上げることはできない。日本全体の象徴としての伝統は持っていない。天皇は確かに日本の象徴であるが、神宮は天皇ではない。だから、この根拠もすぐに成り立たない。

結局、神宮を中心的な存在にする根拠は、神社本庁の決断以外の説得力のある根拠は見当たらない。だからこそ、神宮大麻の頒布活動が低迷しているのではないか、と思わざるを得ない。

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