神宮と天照大神

神宮は実に125の社からなる。その中で天照大神を奉祀するのは僅か数箇所に留まる。それでも、神宮が皇大神宮の御正殿のために存在すると言えるし、それは天照大神の和魂を奉祀する宮である。だから、神宮の崇拝が天照大神の崇拝と一致することは言える。

では、それが一般的に特別な崇拝を捧げる理由になるだろう。

天照大神は最高の神である主張は『古語拾遺』に見えるので、少なくとも9世紀初頭からある概念である。『古語拾遺』の主張で、天照大神が他の神を支配するかのように表現されているが、その後の表現が変わってきた。天照大神は一番貴い神であるが、支配する存在ではないと主張することは多くなってきた。

確かに、主祭神は最高の神様であることは、崇拝の理由になる。強制的ではないが、理由になる。しかし、問題が発生する。その問題は神明宮の存在である。つまり、天照大神を奉祀する神社は神宮に限らない。実は、私の氏神神社の祭神の一柱は天照大神である。

天照大神の特質に基づいて崇拝を促せば、天照大神が鎮座する神社であれば、どこでも良いのではないかと思われる。神明神社の宮司が神宮大麻の頒布に抵抗感を感じることがあるとも聞いたことがある。つまり、自分の神社の主祭人を奉祀する別な神社のお札を自分の神社から頒布する行為に矛盾を感じるようだ。自分の神社に対して不敬なのではないか、と。

ご祭神で伊勢の神宮と他の神明社を区別できないと認めたら、天皇との関係で神宮を特筆することはできるのではないか。それは確かにできる。神宮は天照大神が最初に鎮座した神社であるとは言えない(元伊勢でまだ天照大神を奉祀する神社は少なくないからだ)が、これは天皇の崇敬の中心となった。天皇との関係が一つで一般の崇拝の理由にならないとしても、天照大神の本質と合わせたら理由になる可能性がある。その可能性を認めるが、具体的にどのようになるかは、すぐに見出せない。逆に、天皇が神宮で拝むので、一般の国民が別な神社で拝むべきであると言えるのではないか。論議の詳細は重要になる。

それで、更に根本的な問題を考えなければならない。天照大神の本質が崇拝する理由になるとしたら、その本質は何であるかとはっきりしないといけない。「最高の神様」と言ったら、大きな暗黙前提がある。それは、神様が本当に存在するし、記紀神話が大枠として正しく本質を伝える、ということである。

堂々と書くと、問題は明白である。神の存在ははっきりされていないし、記紀神話を信頼する理由は特にない。実は、記紀神話を読めば、そして延喜式祝詞と参照すれば、元々高皇産霊神は最高神だったのではないかと思ってくることは少なくない。これほど議論を許すことを実践の中心的な行動の理由とするのは、確かに宗教らしいが、それでも問題であるとも言える。

だから、疑う余地のない伝統が根拠になり得るかどうかも検討すべきだろう。

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