誤りからの復活

失敗と誤りは違う。簡単に言えば、「失敗」は価値のあることを志したが、叶わなかった場合を指すが、「誤り」は価値のないことを志した場合を指す。誤りの場合、最初から別な方針を選ぶべきだったが、失敗の場合はそうではない。漫画家を目指したが出版してもらえなかったことは失敗だが、泥棒を目指すのは誤りだ。泥棒としてお金を入手しても、誤りだ。

もちろん、犯罪ではなくても誤りである場合もある。賭博に没頭してしまうことも、ドラマや映画を見るばかりことも、SNSで必死に「いいね」を求めることも、誤りになるだろう。

もう一つの言い方は、失敗の結果は本人のせいではない。本人の責任であることはあるが、本人を責めることは原則としてない。頑張ったが、叶わなかった。一方、誤りは本人を批判する根拠になる。なぜそのようなことをしようとしたのか、と。

だから、失敗に対して助けたいと感じても、誤りは自業自得であると感じて、本人を放置する傾向がある。個人として許される方針であるのではないかと思うが、社会としてとってはいけない。なぜなら、人間は失敗する存在だけではなく、誤る存在でもある。若者は特に誤る存在だ。長期的な視野を持たず、他人の立場を考えず、目の前の誘惑に左右される若者は少なくない。大人になっても、老人になっても変わらない人もいる。

そのような人も社会の一員だから、復活する方法を用意すべきだ。

第一は、誤りを理由に社会の流れから排除してはいけない。誤ったら、流れが当然遅れるが、主流に戻る道を開くのは必要である。

流れへの復帰を可能とするために、何かをしたことはないことを条件としない方針は第一である。つまり、大学の入学には、不登校になったことはないことを条件としない。同じように、髪の毛を染めたことはない条件も認めない。大学の入学条件は、「高校を卒業して、入学試験に合格する」こととするのは良いが、「20歳未満で」を付け加えることは認めない。それで学校で誤ったことはない条件を加えるからだ。

そして、ある組織に入るための条件は、長く遡らない条件とすることも大事だ。例えば、「15歳までに中卒した」という条件は認めない。一旦誤ったら、このような条件を永遠に満たせないことになるので、設けるべきではない。「中学を卒業した」条件は認められるが、「やり直す機会」があれば、何歳になっても中学を卒業することができる。

誤りの極端の例は犯罪である。だから、犯罪歴はないことを条件とすることは許すべきではない。一方、「最近の5年間に犯罪歴はない」のような条件は認められる。それは、刑務所から出たの期間としても良かろう。つまり、社会復帰を証明した時点で、仕事の制限がなくなる。そうしないと、1回の誤りで永遠に主流から排除される。

確かに、殺人等の大きな誤りで、永遠に社会から隔離されなければならないこともあろうが、犯罪の大半はそれほど酷くない。具体策を考えれば、安全に復帰させる方法を講じなければならないが、理念の段階で、これは十分だ。

要するに、誤った人も社会の主流に復活できるようにすべきだ。

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