正当な国際環境

外交に基づく関与の目的は正当な国際環境を保護することであれば、その正当な環境の詳細を明らかにしなければならない。そうしないと、どういう行為が問題になるかは分からない。

その環境は、情報や物品や人間が円滑に国の間に行き来できる状態だと私は思う。

これで「自由」ではなく、「円滑」と書いたが、その違いを重視する。言葉遣いが人や場によって微妙に違うが、ここでの違いは次の通りだ。「自由」は、思うままに、何も支障はない状態を指す。一方、「円滑」は、思うままにはできないかもしれないし、乗り越えなければならない壁もあるかもしれないが、計画を立てて努力すれば、平和にできる状態を指す。そして、多くの場合、その障壁は高くないことを示唆する。

つまり、人間の入国のためにビザの申請を要求することはできる。関税も課すことはできる。ただし、その条件が事実上の禁止にならないように設定すべきである。ここは、人間の行き来を円滑にするが、それは移住を含むかどうかはまだ言えない。旅行や出張で訪れるのは基本だ。

普通の貿易や観光は含まれているが、共同研究や留学等も重要である。これも円滑にできるような環境は望ましい。文化交流は、商売と並んで重要である。商売で生活が成り立つことは多いので、文化交流がより重要であるとは言えないが、文明の発展のために多文化と接することが貢献するので、支える環境を整えるのは国際社会の役割の一つだ。

この環境を確保するために、外交は必要不可欠だ。国の間の軋轢を解消するためだけではなく、日常的な交流のための手続きを定めるためにも話し合わなければならない。政府と政府の立場が大きく違っても、正当な国際環境を保つために話し合って、適切な制度にたどり着くべきだ。だから、意見の隔たりがある場合にも、他の側面での交流を円滑にするために交渉したりするのは良かろう。

この「円滑な行き来」には明白は定義はないことはわかってもらうだろう。明らかに当てはまる状況も当てはまらない状況もあるが、曖昧な範囲は広い。入国基準の厳しさがいつ「円滑」の妨げになるのかは簡単に言えない。この問題も、国際的な交渉に基づいた共有意識が成り立つことで解消されるだろう。そして、時間が経つとともにその意識が変遷する。

それでも、役に立つことがある。ある国が「通常」の状況を明らかに「円滑な行き来」を妨げる状況に設定して、多くの国に「優遇」として円滑な行き来を許す立場を取ろうとしたら、それは許されない。その国が訴える「通常」は制裁等に相当するので、他国への関与に値する。如何に自分の「通常」であると訴えても、世界からの関与を招くことがある。対象となる国は認めないだろうが、重要なのは国際社会の認識である。

この基本を鑑みたら、間接的な制裁は原則として許されないことがわかるだろう。間接的な制裁は、第三国が制裁の対象国と貿易等したら、自国との交流を制限することだ。北朝鮮と貿易することを理由に日本との貿易を制限することは具体例である。他の国に制裁に参画するように説得できなければ、制裁の効果は薄いことを受け入れるしかない。間接的な制裁で強化しようとすることは、正当な国際環境を乱す悪質な行為になる。

これで、制裁で相手国の行動を変えることはできないだろ。しかし、それは現実だ。世界の動きを思うままにできるわけはない。大国をそうさせるのも極めて危うい。だから、この制限を認めるべきだ。それに違反する国にこそ、制裁を課すべきだと私は思う。

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