天宇受売神の行動の特徴の一つは、自分の利益のためにあまり動かないことだ。確かに、天照大神が天岩戸から出たら、天宇受売神も恵まれたが、その恩恵は全ての神と共有した。同じように、猿田彦神と話した時、自分の旅のためではなく、邇邇芸命の旅のためだった。その上、天宇受売神が勝手に動かずに、他の神と話し合って、その結果に従って動いた。
しかし、ただ命令に従って動いたと思ったら、大きく違う。自分でそのやり方を決めたことは大変重要である。社会はある役割を担ってもらう必要があったので、相談の中で天宇受売神がそれを担うことにした。それから、遂行するための方法を自分で考えて、独特な方法で成功に至った。
人間の宇受女が成功に至らないこともあるが、それは自信の問題である。失敗しても良いことを念頭に置けばそれでも積極的に進める。真似することは、社会が認める役割を担い、自主的に成し遂げることである。
そして、担う役割は伝統的に女性に割り振られた役割には限らない。天岩戸の神話で、天宇受売神が担う役割は女性の典型的な役割だったが、猿田彦神の神話で先駆者になったので、典型的に男性が担う役割を果たした。宇受女も同じである。担う役割は社会の決め付きに気にせず、自分の能力と社会の需要に応じて決める。母親として専業主婦の役割を担っても良いが、自分の能力は管理職に向いていれば、夫に子育てを任せて会社の舵を取っても良い。(社会的に性別の傾向が見えてくる可能性は確かにあるが、それは個人と関係ない。仮に多くの女性が子育てを好むとしても、好まない女性に他人事に過ぎない。)
では、これで何を教えるのだろう。
社会の需要をよく見る必要があるのは言うまでもなかろう。広く相談してから判断するのは理想である。(理想は実現できない場合もある。)そして、自分の能力と好みも把握しなければならない。実力が欠けてできない役割を担っても意味はないし、深く嫌がる役割をうまく果たす確率も低い。だから、出生率が低くなっても、短気で子供と接するのが大苦手で、工学の研究に没頭することが大好きな女性は、母親になるべきではなかろう。技術士になって社会に貢献した方が余程良い。一方、テレビを見ることは大好きで、上手に見える女性でも、テレビを見ることを役割とすることはできない。社会には必要ではないからである。
これで、社会の需要を変えることは難しい。無理ではないが、そうするために特別な役割を担わなければならない。一方、自分の好みと能力の調整はできる。能力の場合は明白だろう。新しい技能に身につけたりする方法で、何かができるようになる。これを促す。しかし、好みも固定ではない。特に、できることが好きになることは少なくない。この方法も教えても良かろう。
要するに、社会の需要、自分の好み、そして自分の能力を見極める術を教える。そして、自分の能力と好みを調整する術も教えたら良い。それで、独自の社会貢献を見つけることはできる、宇受女としての活躍する道が開く。
新元号の発表が煥発され“令和”となりました。
万葉集第五巻梅の花の項三十ニ首序文
「初春の令月(れいげつ)にして気淑く(きよ)風和ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披き(ひら)、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用。
万葉集の研究者「感激だ」
万葉集を研究している奈良大学の上野誠教授は「元号は中国が起源で、これまでは中国の儒教に関わる書物からほとんど取られていたが、今回は日本の歌集から取られた。元号が新しい制度に変わったと思った。万葉集は日本の情感の大切さを伝えてくれる書物で、それにちなんでいるのは感激だ。うららかな春の日のような時代がやってきて欲しいという願いが込められているのだと思う。グローバル化が進めば進むほど、日本人が日本人であることを意識することは難しい。そんなときに日本の書物から元号が取られたのは意味がある」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190401/k10011868731000.html
尖閣諸島問題を抱え、この機に及んで中国古典から引用するのは憚られると判断したのだろう。
対中共に対し決別する趣意を抱懐しているものと推察される。雅で発音しやすい元号であると思う。
因みに令和○年に018(れいわ)と足すと西暦下二桁になります。
早速反応した。
>新元号の出典が漢籍ではなく初めて日本古典となったことについて、中国紙の環球時報(電子版)は「中国の痕跡は消せない」の見出しで、引用元の「万葉集」も中国詩歌の影響を受けていると指摘。ネットユーザーの間では新元号のもともとの出典は後漢の文学者、張衡の韻文「帰田賦」だとの主張も目立った。
https://www.sankei.com/smp/world/news/190401/wor1904010003-s1.html
万葉集が中華文化の文学から影響を受けたことは否めませんが、それでも日本の古典であることは変わりません。
私も、いい元号になっていると思います。
只管過去に執着するのはそれ程迄に現在の自分に不満があるということ。
劣等感に苛まれるということは、指標となる比較対象が存在するということであり、その相手は本能的に強者と認識していることの表れである。国家の三要素は領土及び国民、そして主権の三要素からなる。であるならば、国家間の外交は当事者の国民性が如実に発露される。その諸々の諸氏が国家間の序列を決める指標は何かというと経済規模や文化水準、そしてそれらの総合力である戦争による勝敗が判断基準に上げられる。また、脳科学により恐怖は記憶に定着しやすいという報告があり、正しく戦争による勝敗が国家の当事者の判断基準に影響を与えているのは云うまでもない。中国が過去を断罪してくるのはつまりそういうことであり、過去への拘泥という名の陥穽に嵌り続けるのは厄介な認知の歪みである。
悠久の歴史があるのならば、一度や二度負けたぐらいでなんとも思わないはずである。
ところが、漢民族は被支配民族であり、歴史上漢民族の国は数える程しかない。
近代に於いては日清戦争で日本に敗北し、朝鮮の独立と台湾並び遼東半島の割譲を経て列強諸国により七分割され、大東亜戦争に於いては中共は遁走しており棚ぼたな勝利でしかない。
つまり日本には一度も勝ったことがない。歴史を比較すると日本は明治維新を経て西欧列強と比肩する国になり、再び国力を回復しG7の一角を占めるようになった。それに対し中国はと云うと文化大革命や共産主義という机上の空論により東側陣営特有の疲弊国家となり、西欧諸国と比肩したことがない。だから先ず手始めに日本を標的に定め深謀遠慮、面従腹背に様々な支援を得て、またGDPの嵩上げという粉飾により経済大国に躍り出たが、生憎資本主義の経験という素地が整っておらず様々な弊害が随所に現れ、それと同時に露骨な諜報活動と拡張主義という内憂外患により闌を超えて一気に破滅の一途を辿ろうとしている。もう中国は恐らく当分の間は再起不能に陥るだろう。憐れむけどあゝしやごしや。